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日本における学歴と階級と財力の関係

【追記】2016.2.22
このエントリ(と引用している過去エントリ)は、過去に私がママ友から聞かれて答えた内容と、聞かれたけどうまく答えられなかった内容と、答えたくなくてはぐらかした内容、これから子どもの進級に伴って聞かれるであろう内容から構成されています。
とにかく長いですが、要は、お受験に興味のあるママにとって関心のある内容ばかりです。

今、来年度から入塾しようか、来年度も続けようか、という会話が各家庭でなされている時期かと思います。
私は同性としてママたちがゴールの見えないむなしい闘いに巻き込まれてしまっていることをヒシヒシと感じていますが、できることには限界があるので、パパたちに呪縛を解いてあげてほしいと考えました。

このエントリは、そのままママへの反論として使える部分が多数あると思います。
「そんなに塾に行かせたいなら、探究型の塾を見学してからにしたらどうかい? 例えば~」
「そんな上を目指してどうするんだよ。日本にだって階級はあるんだ。一番上には華族さまがいらっしゃるんだぜ。乗り越えられない壁があるんだよ」
などなど。
どうぞご自由にお使いください。
(追記終了)

最近、東京の私立学校には2種類ある 中学受験は親の受験ですという2つのエントリを書いたのですが、なんか、どうも、言いたいことが伝わっている感じがしなくて、モヤモヤしていました。
そうしたら、ソーシャル経済ニュースメディアNewspicksで東洋経済オンラインの日本は「格差社会」である前に「階級社会」だというツッコミどころ満載の記事を見かけまして、「これだ!」と思いました。
その記事は、例えば、
「サッカーを通じて社会階級を乗り越えたベッカム氏の子供は、上流階級の出身ということになるだろう」
と言うわけですが、違います。
階級はそういうものではありません。
また、
「イギリスでは、労働者「階級」と、中流「階級」、資本家「階級」の存在を、日常からも歴史からも感じることができる」
というくだりもあるんですが、なんで、この並びに貴族「階級」が入ってないのか、不可解です。
我慢して、さらに読み進むと、
「日本も、出自による格差が強く固定化した「階級・階層社会(Class Society)」化が進んでいる」
と日本の話になり、文脈から、「出自による格差」は「親の経済力・学歴、出身地(都市のほうが有利)が子供の学歴に影響を与えている」ことを指しているので、「階級・階層社会(Class Society)」が意味するものが「親の経済力・学歴、出身地」による学歴社会になっています。
イギリスと日本とで、階級社会の定義がなんの断りもなく変わっているのです。
そんな元記事の影響でしょうか、賢者の多いNewspicksのコメント欄を眺めても、学歴社会と階級社会を混同している方が多い印象がありました。
学歴社会と階級社会は違います。
でも、たしかに交錯するところはあるのです。

そこをわかってもらわないと、上記の2つのエントリをわかってもらえないと思いました。
そこで、タイトルのようなテーマで1本書くことにしました。
ただ、これは根拠を示せるような類の話ではなく、あくまでも体験ベース、実感ベースのものになります。
しかし、これは誰かが書いておくべきだと思うし、例えば富裕層ビジネスをやっている人はたぶんうすうすわかっている内容だと思いますけど、誰も公の場で書かないでしょうから、書きます。

さてさて、Newspicksのコメント欄で目立ったのは、
「努力すれば東大に入れる。したがって、日本は階級社会ではない」
といった論調でした。
これは、東大生の階級は上のほうであることが前提になりますが、そんなことないです。
東京大学には今のところ(後述のように、入試改革後はかなり変わるはずです)、階級(華族制度のない今の日本の階級ってなんだろう、という疑問はあるものの)が上の人は少ないです。
なぜならば、東大に入るには、それなりに頑張って試験を突破しないといけないから。

階級が上の人は、頑張り過ぎてはいけないのです。
ほどほど、がよいとされています。
何かに秀でていてもプロになってはいけない――そういう暗黙の了解があります。
有名な例を挙げれば、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、いわゆる画家のロートレックは、かつてフランス国王と並ぶほどの力を持っていた名門トゥールーズ伯爵家の長男であり、普通であればプロの画家になるなど許されるわけがないのですが、身体障害があり、社交生活を送れないために特例的に画家になることを父から許されています。

だから、階級が上の人からしたら、伝統的私立から頑張って勉強して東大に行った私は、下品で理解不能な存在でした。
私は母校の友人の母親から、
「○○ちゃん(私)のお母さんは、かわいそうねえ。○○ちゃん、変わってるから」
と言われたことがあります。
面と向かってそんなこと言われても……と固まりましたが、今となれば、子どもの頃から見てきたから、つい出てしまった本音であり、つい出たとしても相当抑えた表現だったんだなあ、とわかります。
当時から、上昇志向の強い下品で理解不能な存在、と見られているのはわかっていました。
けれど、私は努力するのが好きだったし、頑張ることが楽しかった。
クラブ活動と受験勉強の両立は大変だったけど、毎日がとても充実していました。
入試直前は、毎朝ジョギングしてから13時間机に向かいましたが、まったく苦にはならなかったです。
そうやって頑張って東大に行き、その後、何年もかけて母校とのかかわりを絶ちました。
自分の子どもには、階級が上の人に寄り添う生き方より、向上心の素晴らしさや、努力する楽しさを伝えたかったからです。

こんなことを書くと、まるで階級が上の人を貶めているように読めるかもしれませんが、そうじゃないんです。
読んでいるあなたが無意識に、努力をしないことを悪いことだと考えているから、そう読めてしまうのです。
20年くらい前になりますが、社会学者の宮台真司氏が「終わりなき日常」という表現を使ったとき、私は即座に階級が上の人の生き方を思い浮かべました。
「貴族の仕事は無為に耐えることだ」と、誰かも言っていました。
頑張り過ぎず、努力し過ぎず、ほどほどを保つ――それって、かなりしんどいことだと思っています。
とてもじゃないが、それこそ努力したって、私などにはできません……。
でも、彼らにとってはそれが自然なことなんですよね、たぶん。

東京の私立学校には2種類あるで、
「だから、私は、下から学習院の方に対して、2歩も3歩も譲ります。
東大卒といった最終学歴は、そこでは一切関係ありません(逆に、東大コミュニティの中では、そういうヒエラルキーは関係なくなります)」
と書きましたが、それは階級と学歴は違う、ということを言いたかったのです。

という次第で、階級が上の人が基本的に東大に行かないこと(たまにいますけど、学問、研究が純粋に好きな地味な方が多いような印象です)はご理解いただけたとして、では、彼らがどういう大学に行くのかというと、慶應や学習院、成蹊といった私立の大学です。
では、慶應や学習院、成蹊と同じくらいの偏差値の他の大学にも階級が上の人が多いのか、と言うと、そうとは限りません。
つまり、大学の偏差値(ランク)と階級は関係がないのですね、日本では。

ただ、東大法学部に関して言えば、外交官志望の学生は階級が上の人だったりするのかなあ、という気がしています、きちんとご本人に尋ねたわけではないのですが(聞いておけばよかったな)。
ヨーロッパの外交官は階級的に上なので、彼らと対等に付き合うためにはこちらも……というところはおそらくあるはずですし、代々外交官、というお家の人は、なんとなく黙々と勉強している印象があるんですよね、まったくの個人的な印象ですが。
つまり、階級が上の人の中でも、外交官の家系の人は、例外的に、頑張って勉強して東大法学部などに入らないといけないのかなあ、と推測します。
ちゃんと調べたわけではなく、理屈ではそうなるはずだよね、という程度の話です。

もう少し確実な話として、学歴と階級がかかわるケースが、ごくわずかながら存在します。
学歴で階級を上げるパターンです。

男性は、東大法学部に行って、官僚になって、優秀だと評価されると、エスタブリッシュメント家庭のお嬢さんを紹介されるので、結婚します。
そうすると、仮に貧しい下層階級の家庭の出身であっても、エスタブリッシュメントの仲間入りができます(「逆玉」と言うんでしょうかね)。
ただ、本当の意味で仲間に入るには、立ち居振る舞いから何から、相当な努力が必要だろうと思います。
もっとも、生まれた子どもは、特に努力をしなくても、エスタブリッシュメントということになります。

女性の場合はどうかと言えば、東大ではなく、下から伝統的な私立にかよって、上の階級の匂いをつけて、エスタブリッシュメントの男性と結婚するという方法があります。
ただ、普通は、そうやって結婚までこぎつけても、一生、エスタブリッシュメントとは認めてもらえないと思います。
結婚してからも、死ぬまでずっと、否、死んだあとも「あの人は違うから」的なことを言われ続けます。
もちろん、子どもはエスタブリッシュメントということになりますけれど、それが果たして幸せな生き方かと問われると、考えこんでしまいますね。
つまり、東京の私立学校には2種類あるで、
「高い授業料を納めて、国公立ではなく私立にわざわざ送り込む価値があるレベルの人格陶冶を期待できるのは、伝統的な私立のうち、幼稚園や小学校がある学校に、幼稚園や小学校から通った場合だけだ」
と書きましたが、非常にゲスい言い換えをすると、
「下から伝統的な私立にかよえば、上の階級の匂いがつくから、ひょっとしたら玉の輿に乗れるかもしれませんね」
となります。
なんでそうなるかと言えば、本来、エスタブリッシュメント家庭の子弟であるとか、親や親戚が出身者であるとか、そういう条件を満たした子だけが伝統的な私立の幼稚園や小学校の入試をパスできるからです。
つまり、日本では、学歴(特に幼稚園、小学校のそれ)が階級の隠語のような意味合いをもっているのです。

ここで、「階級が上の人」エスタブリッシュメントという表現もだいたい同じ意味で使っています)を定義しておくと、だいたい戦前の皇族・華族と考えています。
江戸時代の皇族方とお公家さん、大名、それから維新の功労者、といったイメージです。
霞会館(戦前の華族会館)のメンバー(当主とその直系子孫)までは絞らず、もう少し広く、皇族・華族の家族、親類縁者まで、というイメージです。
そう考えると、もともと華族の子弟のための教育機関である学習院や、それに似た匂いを発する伝統的な私立の(下からの)在校生、卒業生は、ほぼイコール「階級が上の人」と考えていいんじゃないでしょうか(信者である、極めて優秀である、などの理由により紛れ込んでしまった人は除く)。
だから、階級の話を学歴の話としてごまかすことができてしまうし、華族制度が廃止され、階級が消滅したとされた戦後は、むしろ階級という言葉を出さずに(学歴の話として)階級について語ることがマナーとなっていたように思います。

それを思うと、多くの人の頭の中で学歴社会の話と階級社会の話がごっちゃになるのは、当然なのかもしれません。
さらに、戦後は学習院の門戸は平民にも開かれていますから、上昇志向の強い庶民が、お受験塾で要領を叩き込まれてうまく学習院その他の伝統的な私立小学校に潜り込めば、エスタブリッシュメントの匂いがついてしまいます。
成長著しい多感な時期をともに過ごすわけですからね、匂いくらいはつくでしょう。
そうすると、事情を知らない人に対しては、階級が上のように振る舞うことができる、センセーショナルな言い方をすれば、階級詐称ができてしまうわけなのです。
私もその1人と言うべきでしょうね、お受験塾には行っていませんけれど。

ついでなので書いておくと、私がかつて勤めていた出版社にもエスタブリッシュメントはいましたが、多くはなかったです。
東大卒がゴロゴロしているなど、高学歴の知的エリートはたくさんいました。
作家や大学教授の子どもといった、知的エスタブリッシュメントと呼びたいような人も多かったです。
そういう会社に、東大は出ているものの作家や大学教授の娘ではない私が、なぜ入れたか。
そのことはずっと考えてきたのですが、法学部卒が珍しかったということのほかに、伝統的な私立に幼稚園からかよっていたこと、そこから醸し出される匂い(いわゆる東大臭をかき消すほどの強烈な匂いのようです)がプラスに働いたんだろうな、と思っています。
実際、エスタブリッシュメントに取材するとき、まったく雰囲気にのまれず普通に仕事ができましたし、母校を言うと取材対象の方と話が弾んだこともありました。
でも、同時にそれが原因で、この会社に勤め続けることはできないなあ、と感じ、実は、かなり早い段階で退職しています。
要は、エスタブリッシュメント的価値観と週刊誌的価値観が自分の中で衝突するわけです。
これは、私にとって人生を左右する大問題でしたが、一般的な内容ではないので、先へ行きます。

以上より、階級と学歴の関係をまとめると、

大学と階級は基本的に関係ないが、外交官と「逆玉」に関しては関係があるかもしれない
東京では、どこの幼稚園、小学校にかよったか、と階級に深い関係がある

というところでしょうか。

次に、階級と財力(資産)の関係について。
前提として、経済的地位と財力は違います。
例えば、「一部上場企業の代表取締役社長」の経済的地位は高いですが、オーナー社長ではなくサラリーマン社長だった場合、その財力は、わりと普通だったりします。
経済的地位についての考察は私の能力を超えるので、他の方に委ねます。

で、階級と財力の関係についてです。
まず、財力のある人と言えば、地主でしょうかね。
日本の富裕層で比較的多いのは土地持ちである、と言われています。
戦前は大地主がいました。
戦後の農地改革により絶滅こそしていませんが、だいぶスケールは縮小しました。
今、財力のある地主の典型例と言えば、

先祖代々、農業を営んでいたら、たまたま場所が東京23区内だった。
土地を売ってくれ、使わせてくれ、と言われて、「いいよ」と言っているうちに、気が付いたら、アパート、マンションを何棟も所有する大金持ちになっていた。
毎日働かなくても生活に困らない。

といったイメージでしょうか。
こういう方は階級が上とは言えないけれど、地元では名士と言われ、さまざまな役職を担っていることが多いでしょう。
中の上の階級、と言えますでしょうか。

では、階級と財力の関係は正比例か、と言えば、そんなことはありません。
たしかに、戦前は比例関係があったでしょう。
例えば、太宰治の生家として知られる津島家。
出自のはっきりしないところから財を蓄え、大地主にのし上がり、多額納税により貴族院議員となります。
戦前は、財力があれば上の階級に限りなく近いところまで行けたわけです。

ただ、逆に、階級が上の人に財力があったかと言うと、それは違いますよね。
士族は階級的には上のほうだと思われますが(大地主より上)、没落士族の娘が芸者として身を立てた後、(階級的にはより下の)成り上がりの富豪に身請けされて、お妾さんとなる、といった例は珍しくなかったようです。
食い詰めて満洲に渡って、なんとか生活が成り立つようになったと思ったら、敗戦、シベリア抑留、引揚げ……と、辛酸をなめた士族も少なくありません。

士族より階級的に上の層(華族)はどうかと言うと、これまたやはり、必ずしも財力があるわけではありません。
貧乏な公家の娘が成り上がりの富豪の妻となる、といった話はよく聞きますよね。
そうやって、体面を保つのに必要な財力を確保するべく、プライドを捨ててきたのだろうと思います。
それを含めて、一応、戦前は階級と財力の比例関係が多少はあったと言えるのかなあ、と思います。

その歪みか、江戸時代の士農工商的な発想なのか、エスタブリッシュメントの方には、財力を蔑視する傾向があるように見られます。
リアルタイムには知らないけれど、本当にこれはひどいなあとずっと思っていて、あまりにひどいからここで書くのはやめようかと思いながら、階級制度の負の側面が端的に出た表現だと思うので、あえて書きますが、ご成婚(戦後14年しか経っていない1959年=昭和34年)の頃、美智子さま(皇后陛下)は「粉屋の娘」と言われていたのです。
お父上が日清製粉のオーナー社長だったからです。
それだけ強い反発があったということは、逆に、戦後になって、階級が上の人が体面を保つのに必要な財力を確保することが難しくなってきたのかなあ、と思っています。

ここまでをまとめると、今のところ、

階級と学歴には一部、関係がある
階級と財力はあまり関係がない

となります。
結局、日本にも階級はあることはあります。
けれども、冒頭で例に出したイギリスと比べると、圧倒的にわかりにくいです。
イギリスだと、階級と学歴と財力がだいたい正比例の関係にあると思われます。
貴族階級はパブリックスクールからオックスブリッジに進学するのでしょうし、とんでもなく学費のかかるパブリックスクールに行けるということは、財力もあるわけです。
「フォー・ウェディング」というヒットした英国映画の中で、学生時代の仲間の中でひときわ冴えない男性(貴族)が、
「ボクの家はイギリスで何番目の金持ちだと思う?」
と尋ね、労働者階級っぽい女性が、
「1番?」
と答えると、しかめっ面で、でも軽く、
「6番目だよ。1番はエリザベス女王さ」(5番目だったかな?)
という感じで、正解を披露する場面がありました。
日本の天皇家と異なり、イギリス王家は、貴族階級の中で最も力(財力も含む)を持っている家系に過ぎません。
宗教性、精神性などがない分、階級と財力がストレートに結びついているんだなあ、と思いました。

さて、ここまで長々と階級と学歴、財力について述べてきたわけですが、その目的は、東京の私立学校には2種類あるで批判した、ブランド狙いで伝統的な私立小学校に子どもを通わせつつ、子どもを大手の進学塾に行かせ、せっかくの人格陶冶の機会を逃すだけでなく、学校を引っかきまわしている可能性のある家庭と、中学受験は親の受験ですで再考を呼びかけた、「いい大学を卒業すると将来、幸せになれる」と呪文を唱えつつ、宗教のようにお受験にのめり込んでいる普通の家庭に、現実を見てもらって、努力の方向を間違えていることに気づいてもらうためです。

東京の私立学校には2種類あるで述べたように、これからの子どもたちは「21世紀型スキル」を身につけないといけません。
「21世紀型スキル」の中身は多岐にわたります。

(1)創造力とイノベーション
(2)批判的思考、問題解決、意思決定
(3)学びの学習、メタ認知(認知プロセスに関する知識)
(4)情報リテラシー
(5)情報通信技術に関するリテラシー(ICTリテラシー)
(6)コミュニケーション
(7)コラボレーション(チームワーク)
(8)地域と国際社会での市民性
(9)人生とキャリア設計
(10)個人と社会における責任(文化的差異の認識および受容能力を含む)

詳しくは上記エントリに貼ったリンク先をご覧いただきたいのですが、「たくさんあり過ぎて、わけわからん!」という方は、上記エントリの追記でも紹介している次の2つのエントリで、なんとなく雰囲気をつかんでください。
グーグルの採用基準にからめて、東日本大震災当日の経験から考えたこれからは「高度な事務処理能力」が必要と、続編であり、油井宇宙飛行士のエピソードを取り上げた今どきのリーダーシップのありかたです。

要は、21世紀型スキルというのは、通常の中学受験で叩き込まれていく能力とは真逆なわけです。
知識を積み上げれば、パターンをおぼえればなんとかなる、という類のものではないのです。
どうやって身につけたらいいのか、わからないし、努力して身につくかどうかわからないし、そもそも何を努力すればいいのか、わからない――そう感じている方も多いのではないでしょうか。

でも、だからと言って、「これまでどおりの受験勉強をやってれば、なんとかなるでしょ」と考えないでください。
もちろん、「21世紀型スキル」の前提として基礎知識は必要ですが、今広く行われているような中学受験のように、かなりのボリュームの知識を必死で詰め込むのは無駄、を通り越して有害ですらあります。

というのも、よく問題解決能力がこれからは必要と言われ、21世紀型スキルにも当然入っているわけですが、いわゆるお勉強だけやってきた人を見ていると、問題解決以前に、問題が存在することをわかっていないように感じられるのです(上記エントリの追記と内容的に重なります)。
なんでわからないのか、長いこと不思議でたまらなかったのですが、おそらく、決まった枠の中で考える習慣ができているから、「問題」が視界に入ってこないんだろうと思います。
「問題」とは「問題」になるくらいですから、多くの人にとって、初めて見る事象です。
だから、枠の外まで及ぶ想像力や、枠の外と中を行ったり来たりできる柔軟性(枠というルールにとらわれないことも含む)がないと、「問題」の存在自体が見えないのでしょう。

例えば、最近、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーといった性的少数者)を会社の中でどう処遇するか、といった議論が徐々に行われるようになりましたが、20年、30年前はLGBTと言ってわかる人はほとんどいなかっただろうし、まして彼らの処遇が「問題」であるという認識すらなかったと思います。
知らず知らずのうちに、「生物学的性に一致する性自認をもち、生物学的性に一致する装いをして、異性を性愛の対象とする」という決まった枠の中で考えていて、枠がある(言葉にすると、要件の多い枠で、けっこうハードルが高いのに)ことにすら気付かなかったのです。

そういう意味で、「問題解決」以前に、その前提である、問題に気付く能力、問題を立てる能力が大事だと私は考えているのですが、いわゆるお勉強だけやっていると、頑丈な「枠」をもつ受験マシーンのようになって、問題の存在に気付かない人になってしまう危険があります。
それが、受験勉強が有害だと考える理由です。

しかも、「敵」は遥かに有利なんです。
受験マシーンになってる場合じゃないんです。
あさっての方向の努力をしている場合じゃないんです。

今、「敵」と書きましたが、まずはエスタブリッシュメントのこととお考えください(エスタブリッシュメントのみなさん、煽り口調をお許しください)。
日本の教育制度は、格差社会の上のほうにいる人に有利なように作り変えられつつあるで書いたように、大学入試改革、つまり、知識を中心に1点刻みで評価していく、ある意味とてもシンプルな、現行の大学入試センター試験がなくなり、「知識より思考力や判断力などを測る」テストや「「面接や小論文、ボランティア活動などを多面的に評価」する試験がはじまることになっています。
そうなると、知識量や暗記力だけではなく、幅広い読書量や豊かな知的会話の量に裏打ちされた、たしかな教養や思考力が必要になるわけで、格差社会の上のほうにいる人にとって有利であることは否定できません。
東京の私立学校には2種類あるで書いたように、エスタブリッシュメントの文化的資産といったものが相当有利に働く、ということです。

どういうことか、うんとわかりやすい例で説明します。
私が階級の存在に気付いたのは、小学生のときです。
上級生の教室の壁に、夏休みの宿題だったのでしょうか、1人1人が作った壁新聞が貼ってありました。
その中の1つは、自分の家族のできごとを年表にしていました。
そこに、
「ひいおじいちゃま、○○で××により殺害される」
という1行があったのです。
「○○」や「××」から、「ひいおじいちゃま」が、ある維新の功労者だとわかりました(今思えば、歴史が好きだったからわかったんですね)。
その事件が、小学校の教科書に載っていたかはちょっと記憶にありませんが、当時の四谷大塚の予習シリーズ(私は勉強が好きだったので、親に頼んで、学校を優先する条件で四谷大塚の日曜テストに行かせてもらっていました)や高校の日本史の教科書に出ているくらいの重要事件でした。

ところで、今どきのリーダーシップのありかたで書いたように、グーグルの採用基準の第4は「主体性」だそうです。
英語で書かれた元記事をあたると、「ownership」でした。
「ownership」の辞書的な意味は「所有権」ですから、職務を自分のものとする、自分事とする、といったニュアンスでしょうか。
この「主体性」は「21世紀型スキル」とも関連が深いです。

ある維新の功労者が殺害された事件は、私にとっては歴史上の事実でしかありません。
はっきり言って、他人事(ひとごと)です。
だから、大学受験時に日本史を選択した私は、他人事のような史実1つ1つをコツコツとおぼえ、そのつながりを理解し、歴史の流れを自分のものとして、きちんと論述できるようにトレーニングしました。
かなりの努力をして、自分事にしたのです。

しかし、壁新聞の作者にとっては、その事件は家族のできごと。
自分事なのです。
最初っから、何の努力もせずに、歴史の流れが、ひいおじいちゃまの活躍と悲劇という形で自分のものになっているのです。

小学校の友だちには、大名家の子もいました。
世が世ならお姫様、というわけです。
そして、彼女がある地域の地理について勉強することが何を意味するかと言うと、それは「うちの領地」について学ぶことなのです。

「下駄を履かせる」という表現がありますけれど、それは量的に有利にすることを指す言葉だと思います。
上で例として挙げさせてもらった彼女たちは、下駄どころじゃないんです。
質的に有利なんです。
「敵」は、努力も何もなしに、我々庶民の遥か上に、ポンと立っているのです。
非エスタブリッシュメントの私たちが無駄な努力をして遠回りをしている場合じゃない、ということ、おわかりいただけるでしょうか。

もちろん、格差社会と言った場合の「格差」は、「階級」とは異なります。
グラデーションになっているし、流動的でもある。
内容的にも、階級、学歴、財力、それらがないまぜになっているのではないでしょうか。

そうだとすると、なかなか客観的な判定は難しいのですが、自分をあてはめると、「階級」はたぶん真ん中くらいですが、「格差」社会においては真ん中よりだいぶ上に位置すると思います。
それは財力があるという意味ではありません。
学歴というか、知的エスタブリッシュメントというか、月九「デート~恋とはどんなものかしら~」とブルデューの「ハビトゥス」の関係で書いたような、絶えず「なぜか?(WHY)」「どのように?(HOW)」を考えるような「ハビトゥス」を身につけていること、それによって、自分が格差社会の上のほうにいると考えています。
その意味で、私も「敵」なのかもしれません……。

ただ、私は、日本の教育制度は、格差社会の上のほうにいる人に有利なように作り変えられつつあるで書いたように、
「今、たまたま格差社会の上のほうにいる人は、その事実を承けて、自分が何をするべきか、真剣に考えるべきだ」
と考えていて、その実践としてこのエントリを書いています。

で、問題は、努力至上主義の我々(と言わせてもらいます)非エスタブリッシュメントは、いったいどうしたらいいのか、です。
正しい方向に努力するしかないよね、ということなのですが、正しい方向はどっちか。

結論を申し上げると、わからないんです。
正解がないんですよ。

そんなこと言われても困ると思うので、あえて正解をつくるならば、東京の私立学校には2種類あるでも言及した「WorMo’」の山内教授に聞く『21世紀型スキル』と教育の、

「まずは大人が意識をすることが何よりも大事です。これから先は変化が激しく、この100年ぐらい続いた学校教育や終身雇用の形が大きく変わる時代に向けて、自分自身が生きる姿勢を変えていくことです。こどもは、その姿を見て感じ、背中を見て成長していきます」

ということだと思います。
親自身が模索する姿を、子どもに見せる、ということです。

朝から晩まで仕事で、あるいは、単身赴任中で、子どもとの接点がないです、という方であれば、今かよっている詰め込み式の進学塾をやめて、探究型の塾へ行くのもいいと思います。

探究型の塾、と言って通じるでしょうか?
ざっくり言えば、「21世紀型スキル」を伸ばしてくれる塾です。

オススメは専門の塾です。
私が知っている範囲+ググった結果から少し挙げると、

東大の近くにあるa.school(エイスクール)
『強烈なオヤジが高校にも塾にも通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話』の宝槻泰伸氏が代表を務める探究学舎
小学生専門の寺子屋一心舎
岐阜県にある進路探究塾 Mirai

という感じです。

お子さんが興味を示すのであれば、プログラミング教室やロボット教室もいいと思います。
「21世紀型スキル」のうち「情報通信技術に関するリテラシー(ICTリテラシー)」に直結するわけで、一石二鳥とも言えます(ただし、無理強いは逆効果です)。

「いきなりそういうトコロはドキドキしてしまう~」という方であれば、大手の進学塾がオプション的に用意している探究型コースや大学入試改革を意識したコースに行ってみるのもいいと思いますよ。
例えば、
SAPIXの朝日新聞で学ぶ総合教材 今解き教室
四谷大塚早稲田アカデミーの理科実験教室
四谷大塚早稲田アカデミーから申しこめるアルゴクラブ
日能研のGEMS(ジェムズ)体験講座日能研ディスカバリークラブ

GEMS体験講座は、みーちゃんに体験させましたけど、「たのしかった。またいきたい」と言っていましたよ。
今は無料のお試し講座ですけど、「お金を払ってもかよわせたい」という親が増えてくれば、きっと常設の教室になるのではないでしょうか(そうしてくれますよね、日能研さん!)。
他のコースも、今はウェブサイトの端のほうでひっそりと紹介されていますけれど、人数が増えてくれば、いわゆる受験コースと立場が逆転するかもしれません。

つまり、選ぶのは私たち親だ、ということです。
親が動けば、塾もついてこざるをえないのです。
塾の先生を教祖様のように崇め奉っている親御さんをときどき見かけますけど、その塾を選んでお金を払い込んだのは親自身だ、ということを忘れないでください。

さあ、どうしますか?
まだお子さんを受験マシーンにしたいですか?
それとも、新しい大学入試を軽々と突破し、21世紀を楽しく生き抜けるように「21世紀型スキル」を磨かせたいですか?

最後に、仮説を提示します。
最近、子どもの貧困についての記事をよく見かけます。
「問題は親だ、親に向上心がないからこうなる」と分析する記事が多いように思います。
私が提示したい仮説は、
「そういった親の中には、エスタブリッシュメント階級から堕ちていった人が少なくないのではないか」
というものです。
もしそうだとすると、努力とか頑張るということに価値を認めず、上昇志向を嫌悪するメンタリティが強固に存在するわけで、周囲の説得に応じる可能性は限りなくゼロに近いと思います。
この仮説がはずれていることを祈るばかりです。

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プロフィール

渡辺リエラ
1969年東京生まれ。1988年東京大学文科1類入学。1992年東京大学法学部卒業。出版社勤務、専業主婦を経て、現在、別名義にて大学講師などとして活動中。2007年7月第1子「みーちゃん」誕生。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
生後106日以降のママ日記は有料とさせていただいております。有料とする理由含め詳細は「当サイトについて」をご覧ください。
取材(「取材してほしい」「取材したい」の両方)、お子さまの教育についての相談(実費申し受けます)などもお気軽にどうぞ。「お問い合わせ」からご連絡をお願いします。

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