2015年06月

ゴリラは人間のライバルになりうるか――国立大学人文社会系の問題について

先週、京都新聞の人文社会系学部「京大には重要」 山極総長、文科省通達に反論が話題になっていました。
「文部科学省が国立大学に人文社会系の学部や大学院の組織見直しを通達したことについて、京都大の山極寿一総長は17日、「京大にとって人文社会系は重要だ」と述べ、廃止や規模縮小には否定的な考えを示した」のだそうです。
国立大学人文社会系の組織見直しについては、平成26年8月4日の国立大学法人評価委員会(第48回) 配付資料 資料2-1 「国立大学法人の組織及び業務全般の見直しに関する視点」について(案)などで示されており、既定路線だったようですね。
大学職員の書き散らかしBLOGのここ最近の大学改革の流れと今後の国立大学。は、流れがわかりやすいです。

それが今、話題になったのは、やはり京大ブランドがあるのかなあ、と思います。
京大法学部卒、細野豪志衆議院議員のブログエントリ文系学部廃止令に物申すを読むと、京大の人文社会系の雰囲気がよく伝わってきます。
私は、こういう雰囲気、嫌いじゃありませんし、賛成してくれる人は多いんじゃないかな、と思います。

山極寿一総長自身は理系の方です。山極寿一公式ウェブサイトを見ていただけばわかるように、ゴリラ研究者としてとても有名な方です。
それを思うと、京都新聞の記事に出てくる総長の「幅広い教養と専門知識を備えた人材を育てるためには人文社会系を失ってはならない」という言葉には、とても味わい深いものがありました。
ゴリラはかなり人間に近い生き物ですけど、それでも哲学書を読むシーンは、ちょっと想像できませんものね。
その意味で山極総長は、文系の価値をリアルに理解しておられるのだと思います。

私は、京大が「人文社会系は維持するぜ!」と主張したのは当然だと思っています。
ただ、他の大学が我も我もと真似したら、勘違いしてるなぁと思います。
日本の大学・大学院の人文社会科学系は、全体としては縮小するべきだと思うからです。

そんなことを言うと、
「京大や東大の人文社会科学系を卒業した人間の行き先はどうなるんだよ。大学や大学院が減ったら、ポストも減るじゃないか」
と言われそうですが、京大や東大辺りにかろうじて残ったポストに収まるか、世の中の意思決定をする人(CEOや官僚など)になるか、高等遊民になるか、そのどれかです。
日比嘉高研究室の国立大の「理系シフト」と高校現場、そして親たち
「わざわざ文系学部を選ぶ子は、「物好きな子」という扱いになっていくのではないか」
と書いていますが、これからの人文社会科学系には、ものすごく優秀で自信のある子か、大学教員などしなくても、家のお金で自由に研究しながら暮らしていける子か、「物好きな子」しか進学しなくなるんでしょうね。

こんなことを書くと、「格差の固定化かよ」と言われるかもしれませんが、まさにそういうことなんだと思います、イヤな話ですけど。
先月末には、PRESIDENT Onlineの国立大学改革亡国論「文系学部廃止」は天下の愚策(プレジデントFamily 2015年春号)もバズっていました。
内田樹先生は
「「人を使う側の人間」は富裕層内部で自家培養するから、残りの99%のみなさんは「使われる側の人間」として頑張ってくれ」
みたいなことを書いておられまして、とてもイヤな気持ちになりました。
うちは貧乏ではないけれど、「富裕層」とも言えないからです。

ただ、内田先生が言うことはそのとおりなのです。
「自家培養」が感覚的に増えてきている気がします。
東洋経済オンラインの美少女コンテストに「勝つ子」は何が違うのかによると、
「コンテストで優勝する子としない子の「差」は、彼女たちの両親にある」
そうです。
要は、親の容姿や立ち振る舞いをチェックして、大人になったときを想像して審査している、ということです。
月九「デート~恋とはどんなものかしら~」とブルデューの「ハビトゥス」の関係で述べたような、ブルデューの「再生産」における「排除と選別」の議論が、フランスだけではなく日本にも、美少女コンテストだけではなくすべての子どもたちに、妥当する時代がやって来たのです。

それはたしかに気分のいい話ではありません。
でも、日本の教育制度は、格差社会の上のほうにいる人に有利なように作り変えられつつあるで書いたように、今、ありったけのリソースをつぎ込んで本物のエリートを育成しないと、この先、日本が廃墟のようになりかねないわけで、それを考えると、格差社会の上のほうにいる人(と、下から彗星のように現れる天才)の中から、手間ひまかけてエリート候補生を絞り込んでいくしかないのです。
その絞り込み方はかなり極端です。
ログミ―の21世紀は「人・物・金」から「人・人・人」へ 大前研一氏が「もはやお金は経営に必須ではない」とビジネスの変化を語るで、大前さんは、
「21世紀の人っていうのは、日本国が20世紀に作った優秀な人を大量にというんじゃなくて、1人でいいからすげえやつがほしいと。とがった人間1人。これが勝負なんですよ」
と言っていますが、そういう絞り込み方なんです。
1人でいいんです。
1人でいいから、スゴイヤツがほしいのです。
内田先生は、前掲国立大学改革亡国論「文系学部廃止」は天下の愚策で、
「かつては、どれほど貧しい家庭の子供でも、公立の小中高から国立大学に進み、そこから上場企業や中央官庁に入るという定型的なエリートコースがありました。かなり広々としたキャリアパスが出身階層と無関係に存在した」
とおっしゃっていますが、そういう多数の均一化されたエリートが必要な時代ではなくなったわけです。
1人でいいから、ずば抜けた子がいればいい、そういう時代なんですね。

ただ、ずば抜けた子が出てくるかどうかは、宝くじみたいなもの。
宝くじを買いまくっても、当たる確率は低い。
それと同じです。
このように、ただでさえ宝くじみたいなものなんだから、不確実な人文社会科学系になんか、貴重なリソースを割くわけにはいかないのです。

文部科学省サイト、平成12年11月28日付の学術審議会学術研究体制特別委員会 人文・社会科学研究に関する ワーキング・グループの人文・社会科学研究及び統合的研究の推進方策について(審議のまとめ)が名文すぎて、全文必読だと思っていますが、ほんの少しだけ引用します。

「我が国の人文・社会科学は、明治以来、非西欧社会の近代化のさきがけという、他に類を見ない立場に立ち、苦闘する者としての経験と実践の諸相や人間の様々な営みを、西欧から継受した学問に依りながら、見据え、分析し、思惟し、理論化する道を歩んできた」

「しかしながら、今日、世界的規模における激動的状況はますます深刻化・複雑化し、とりわけ科学技術の爆発的発展がもたらす負の影響は極めて深刻なものとなって、人類と地球の将来を脅かすに至っており、人類が英知を結集してこれに取り組まなければならない状況にある」

「物理学、数学等の自然科学系の学問は、基本的に方程式の形で成果が結晶していくのに対して、人文・社会科学は、「ことば」を媒体とする文化や社会を対象としており、成果も「ことば」を主たる媒体としていることが特性である。そのため、本来多義性やゆらぎを完全には免れない」

「自然科学が、一般に自然現象の法則を見出すという「法則定立型」の学問であると言われるのに対して、人文・社会科学は、観察の主体と客体とが微妙に響きあう中で、様々な次元での解釈を積み重ねてゆく学問である。人文・社会科学においても、法則定立を目指す分野はあるが、実際になされているのは蓋然性の提示といった程度のものである」

最後の指摘は、突き詰めていけば、どっちもどっちかなあ、という気もするのですけど、まあ、これを読むと、人文社会科学系にとてもじゃないが、血税を注ぎ込む気にはなれないですよね。
しかも、

「我が国の人文・社会科学は、以下のような課題を抱えていると言わざるを得ない。
1.細分化・蛸壺化による国内外を通じた閉鎖性」

とまで書かれています、うわあ。

これと少し重なる部分もありますが、「現代ビジネス」の鈴木寛とオックスブリッジ生が語る「”グローバルスタンダード”における日本の教育の強みと弱み」で、鈴木寛文部科学省大臣補佐官は、

「日本の高校の理系の教育はとてもレベルが高いので、理系であれば海外の大学の進学を目指す場合も相対的な難易度は低いです。しかし、文系は違う。日本の歴史教育や論文教育はなかなか通用しません。オックスブリッジを目指す場合、インタビューやライティングのスキルを鍛える必要があります。今の日本の中等教育では正直太刀打ちができません」

「大学院レベルでは国のカラーやレベルの差はかなり縮まります。東大でもMITでもオックスフォードでも似たようなレベルの研究ができます。大きいのは学部教育、特に文系の学部教育です。日本はここは非常に弱いと感じています」

と語っており、大学の文系はケチョンケチョンです。
かくいう私も、東大法学部が復活するための処方箋で書いたように、法学部の優秀な先生方や仲間たちが、例えば数学、物理といった分野に進んでいたら、ものすごい学問的な発展があったんじゃないか、と思っていますけどね。

以上の話は、国立大学だけじゃないと考えています。
日比嘉高研究室の国立大から教員養成系・人文社会科学系は追い出されるかもしれない
「教員養成系および人文社会科学系は、原則、私大等でやれということなのでしょう」
としていますが、むしろ本丸は私大文系ですね。
だって、鈴木補佐官は14年の時点で、ダイヤモンド・オンラインの私大文系の知識偏重と数学なしが問題 入試改革“言いっぱなし放談”を斬る!で、

「私は40年分の東大、京大入試を見ていますが、国語も数学も社会も論述式の「良問」揃いだと思います」
「今年の京都大学経済学部の論文は秀逸です。さすがに良問の京大」

とべた褒めする一方で、

「私立大学の文系入試の頂点といえば、早稲田大学。その「世界史」の問題は私が受験生だった時代から現在も変わらずに難問・奇問で名をはせています」
「マークシート型入試勉強に追われていた人こそ、もっとわかりやすく説明してくれという記者が多いのです」
「ある国立大学の文系の大学院で、大学院時代の成績と何が一番相関するかを調べたところ、高校時代の数学の成績だったと教えてもらったことがあります。文系なのに数学か? と思われるかもしれませんが、文系といえども社会科学ですから、論理的思考というのは不可欠です。数学ができるかということは、論理的思考ができているかどうかの一つの証ですので、納得できる結果です」
「本来、問題とすべきなのは私立文科系入試に、数学がないこととクイズのようなマークシート型知識偏重入試の改善なのです」

とまあ、清々しいくらいの私立文系悪口オンパレードです。

内田先生も私大の先生ですけど、先生はじめ、人文社会科学系の縮小に反対している学者さんたちは、日経ビジネスオンラインの「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」」の知性と教養は経済を回す
「「教養」を養うためには、実は伝統的な学問へのアプローチの仕方を学ぶことがいまのところ最も洗練された訓練法なのだ」
というくだりに賛成するだろうなあ、と思います。
また、
「そうやって無駄な要素を省いて行くと、無駄なものにかかわる人間がいなくなる。つまり、音楽を楽しんだり歴史散歩をしたり古美術を蒐集する人間が消えてしまう。と、需要が半減して、世界はとんでもない不景気になる。教養という無駄も、実は経済を回しているのだと思う」
というくだりにも、おそらく共感するだろうなあ、と思います。
そういう「教養」観は私も好きですが、ゲスい表現をあえて使うと、「教養」への憧れで商売できる時代は終わったのだと思います。

私は、内田樹の研究室の旦那芸についてというエントリが大好きなんです。
「観世流の謡と舞の稽古を始めて十八年になる」内田先生が、「私がしているのは「旦那芸」だ」と言うわけです。
つまり、「趣味の稽古事に夢中になって、そのために本業を忘れ、社交上若干の問題を抱えるようになった困った旦那たち」が芸能を支えていたわけです。

「経験的に言って、一人の「まっとうな学者」を育てるためには、五十人の「できれば学者になりたかった中途半端な知識人」が必要である」

「「自分はついにその専門家になることはできなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難なものであり、どれほどの価値があるものかを身を以て知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かし、その専門知を深め、広め、次世代に繋げるためにはどうしても不可欠なのだ」

「「身の程を知る」というのは自分が帰属する集団の中で自分が果すべき役割を自得することである。「身の程を知る人間」は、おのれの存在の意味や重要性を、個人としての達成によってではなく、自分が属する集団がなしとげたことを通じて考量する。それができるのが「大人」である。私たちは「大人」になる仕方を「旦那芸」を研鑽することによって学ぶことができる」

つい、いっぱい引用してしまいました。
で、強く思うのは、ついに「教養」も完全に「旦那芸」の世界に入ったのだなあ、ということです。
かつては、500人、5000人が「教養」へ憧れ、授業料や書籍代という形で課金することで、学者が育つとともに「教養」をかじった多数のエリートが生み出されました。
でも、これからは、50人の「中途半端な知識人」が「教養」を支え、学者を支え、1人の「ずば抜けた子」を目を皿のようにして探しだすわけです。
そうやって、教養が旦那芸に支えられるようになることが悪いことかというと、そうでもなくて、旦那衆が相手なら、
「蛸壺化上等、閉鎖性上等」
と開き直れるわけです。
そっちのほうがいいと思いませんか?

という次第で、日本の大学・大学院の人文社会科学系は、全体としては縮小するべき理由を書いてきたわけですが、もっと言うと、文系だけの凋落ではないと思います。
「G型・L型大学」の議論に興味を持てない理由で書いたように、G型、L型問わず、理系も含め、「知の殿堂」である大学の地位自体が根本的に揺らいでいるわけです(芸術系、体育系については保留します)。

日比嘉高研究室の国立大文系学部の学生定員は、「半分ぐらいなら残してもいい」とか言われたという噂では、
「2.「地域特化型」は文系だけでなく理系においても求められる。ある理系教員曰く、「地元指向の科学って、いったい何の事だ?」」
「「地元指向の科学」って、それはもう「科学」ではないだろう。それは端的にいって技術開発でしかない」
と書かれていますが、技術開発でいいってことだと思います。
毎日新聞(共同)の産業競争力会議:首相が職業教育の高等教育機関創設を表明(2015年06月04日 20時18分)によると、「実社会のニーズに合わせた職業教育を行う新たな高等教育機関制度を創設し、学校間の競争を促す」が、「既存の4年制大学や短大、専門学校から新教育機関への移行も認める方針」とのこと。
要は、大学のほとんどを職業訓練校にする、専門学校にする(戻す)、ということですよね。
PTA会長職から逃げ回る父親は最低だで書いたように、私は、高等教育とは、さまざまな集団をまとめ、維持していく人になるための陶冶(とうや)の場である、と考えています。
それがわからない子どもに高等教育を受けさせる必要はないし、そんな余裕などない時代になっていくのでしょう。
日本を背負って立つかもしれない子どもだけが「大学」に行く時代になるのです。
高等教育ってそういうもの。
それでいいんだと思います。

そんな時代はイヤだ――そう思う人もいるかもしれませんが、後戻りはできません。
近代の終わり――人間の理性が統計的事実によってその確からしさを検証される時代が来たで書いたように、すべての認識の頂点に立つものは、人間の精神、理性から統計的事実に変わってしまいました。
パラダイムが変わったのです。
これまでは、神の似姿として造られた人間と動物とは、理性の有無で決定的に違う存在でした。
そういう決め手がなくなりました。
統計的事実を頂点とする世界では、ゴリラは人間のライバルになりうるのです。

保護中: 2015年6月24日配信 過去のママ日記(1歳0か月と28日~1歳1か月と3日) 初旅行

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プロフィール

渡辺リエラ
1969年東京生まれ。1988年東京大学文科1類入学。1992年東京大学法学部卒業。出版社勤務、専業主婦を経て、現在、別名義にて大学講師などとして活動中。2007年7月第1子「みーちゃん」誕生。
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