この日、大学時代の友人(女性)とフレンチを食べました。
友だちと出かけるのも久しぶりだし、外食するのも久しぶり。
新鮮です。
ま、フレンチと言っても、1000円なんですけど。
でも、都内の、しかも神楽坂近辺で、1000円でフレンチが食べられるなんてスゴイと思いませんか?(前菜とメインのみ。コーヒーやデザートは含まず)
さて、わが友人、まずは「おめでとう」と祝福してくれましたが、直ちにけん制球を投げてきました。
「リアルな話ってダメなんだ」
ど・リアルな話を聞かされて気分が悪くなった経験があったような口ぶりです。
妊娠について正確に語ろうとすると、どうしてもリアルな描写が出てきちゃうんですよね。
でも、はいはい、気をつけましょう。
さらに、決め球。
「妊婦さんって苦手なんだよね……」
ひぇ~!
私も妊婦なんですけど。
本人を目の前にして、
「あんた、嫌い」
と言うかぁ~?
でも、私にも、その気持ち、わかるんです。
妊娠する前、私は意図的に、妊婦さんを視界から排除していました。
その理由。
まず一つは、自分が、子どもがほしいのに、まだ環境が整わず、子どもを持てないから、子どもを持とうとしている女性(しかもたいていは年下)を見るのがつらい、ということ。
二つ目は、街で見かける妊婦さんがへらへらしているというか、幸せぼけ、というか、とにかく、見ていてイライラすること。
とくに、時間がなくてあせっているとき。
まあ、自分が妊婦になってみると、妊婦の動きがゆっくりしているというだけだったのかなあ、と思いますが。
三つ目は、“妊婦は美しい”という言説への反発。
もちろん、幸せが中からにじみ出てくる美しさ、というならわかります。
そうじゃなくて、妊婦のからだそのものが美しい、みたいに言う人がいるじゃないですか。
〈そうかあ?〉
私は、思います。
〈妊婦のからだの線それ自体は、グロテスクでしょ〉
同意できないわ、とおっしゃる方には、ぜひ川久保玲の「こぶドレス」を思い出していただきたい。
※画像を貼りたかったのですが、権利関係が不明だったので、断念。ご自分で画像検索してみてください。ごめんなさい。
「こぶドレス」は、コム・デ・ギャルソン1997年春夏の作品で、羽毛のパッドでからだのあちこちをふくらませたものです。
モデルのからだの背中や肩、腰などがまるでこぶのようにふくらんでいる――それを見ているうちに、胸やお尻のふくらみもこぶみたいなものじゃないか、という気分が生まれてきて、胸やお尻がふくらんでいる、いわゆる女性らしいからだの線が、どうでもよくなるのです。
かっこいい言い方をすれば、
「男と女という性の境界線を飛び越えてしまう」
わけです。
もっと言うと、〈背中にこぶがあると身体障害者と烙印を押され、胸にこぶがあるとナイスバディと賞賛される。同じこぶなのに、不思議だなあ〉
という具合に、いわゆる健常者と障害者の境界線もあいまいになってきます。
そういう感覚で妊婦のからだを見ると、おなかのふくらみもこぶの一種なわけで、
〈普通と違う〉
と、違和感をもつ人には、グロテスクに感じられるのです。
その印象を、「美しい」という評価に転換させるためには、
〈妊婦のおなかのこぶは特別で、その中には新しい命が宿っている。その命はやがてかわいい赤ちゃんとなって出てくるんだよ〉
という、別のイメージなりストーリーなりが必要なのではないでしょうか。
友人がどういう意味で、「妊婦さんって苦手なんだよね……」と言ったかは正確にはわかりませんが、当時の私は、
〈イメージなりストーリーなりに惑わされずに、妊婦のからだの線そのものを見ることのできる、眼力のある人だ〉
と、改めてその友人に敬意を表したい思いにかられました。