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近代の終わり――人間の理性が統計的事実によってその確からしさを検証される時代が来た

今、時代の転換点に来ている、パラダイムが変わろうとしている、としばらく前から感じてはいたのですが、なかなかその中身を言葉にすることができませんでした。
先日、NewsPicksという経済に特化したニュースキュレーションサイトのビジネスもスポーツも、データが人間の思考を上回る時代になったというオリジナル記事を読んで、不十分ながらも言語化できそうな気がしたので、無謀にも挑戦してみます。

その記事は、日本ラグビー協会コーチングディレクターの中竹竜二さんと、SAP社のChief Innovation Officerの馬場渉さんの対談なんですが、馬場さんはこんな発言をしています。

「例えば機械学習で猫を教えるとすると、「こういうものが猫ですよ」と定義を教えるのではなく、猫を1万匹撮影して、パターン化して、「こう呼吸して、こういう動き方をするのが猫である」という教え方をする。僕なんか、「そんな方法で、猫って分かるの?」って思います。でも、「馬場さん、あなたが猫だと思っているものを猫だと言い切る自信は、どこにあるんですか?」っていう人が実際にいるんですよ(笑)。」

自分が「猫だと思っているものを猫だと言い切る自信」を理論的に解明して、肯定してくれた人、それはデカルトです。
デカルトと言えば、「我思う、ゆえに我あり」の命題が有名ですね。
ウィキペディアの「我思う、ゆえに我あり」の項では、
「一切を疑うべし(De omnibus dubitandum)という方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である」
と説明されています。
難しいので、ざっくり言うと、自分を含めてこの世のあらゆる物は本当に存在するのだろうかと疑って、疑って、疑っていくと、少なくとも、疑っている自分の存在だけはたしかだ、ということです。

デカルトの時代、だいたい17世紀ですが、その頃は、例えば1+1=2のような数学的な観念は、生まれたときから神様によって与えられている「生得観念」なので、いつでもどこでもそうなる、つまり、普遍的かつ確実である、と考えられていました。
そして、目の前に1匹の猫がいる、とか、その後ろにも1匹の猫がいる、といった自然の事象は、私たちが、視覚という感覚によって経験的にたまたま知覚した不確かなものにすぎない、と考えられていました。
しかし、デカルトは考えました、目の前にいる1匹の猫と、その後ろにいる1匹の猫を合わせると、2匹の猫がいるように思えるから、2匹の猫がいると断言したい、どうしたらそのように断言できるだろうか、と。
そして、1匹+1匹=2匹のように、単なる経験的な認識でしかないものに数学的な表現を与えれば、数学的観念並みに確実である、といえるのではないか、猫だけでなく、すべての事象についての人間のあらゆる認識について同じように考えれば、人間の認識は神様によって与えられている「生得観念」並みに確実なものといえるのではないか、と思いついたのです。

では、それをどう証明すればいいでしょうか。
1匹+1匹=2匹なんじゃないかなあ、みたいなことを考えているのは、私たちの精神です。
デカルトとしては、その私たちの精神は「生得観念」並みに確実だと言いたいわけですが、そこで登場するのが「我思う、ゆえに我あり」の命題です。
この世のすべての事象は真実だろうかと疑っていくと、少なくとも、疑っている私の存在だけは真実である、疑うとき、神様から与えられた「生得観念」しか使っていないから、自分の存在は真実である、とすれば、私の精神が疑うのと同じレベルで認識している事象はすべて真実である、とデカルトは考えました。
つまり、私が猫だと思っているものはたしかに猫である、ということです。

このように、デカルトが、私が猫だと思っているものは猫であると言い切っていいんだよ、と言ってくれたおかげで、自然の事象もまた普遍的かつ確実である、具体的には、物が燃えたときには常に、空気中の酸素が使われて二酸化炭素ができるんだよ、というようなことが言えるようになって、科学が発展して……今の便利な世の中が築かれたわけです。
別の言い方をすると、デカルト以降、すべての認識の頂点に立つのは人間の精神、理性です。
それが、近代という時代の特徴であり、だからこそ、デカルトは近代哲学の父と言われています。

デカルト以前は、神様がすべての頂点でした。
デカルト以降、それまでは、その存在が疑うことのない前提とされていた神様でさえ、人間の理性によって存在を証明される対象となったのです。

そして今、すべての頂点に立つものが、統計的事実、になってきています。
ポスト・モダーン以降、疑われはじめていたものの、なんとか頂点に君臨していた人間の精神が、ついに、統計的事実によってその確からしさを検証される時代に入ったのです。
そういう文明の転換点に来ているということですね。
上の記事の中で馬場さんが言っている、

「データサイエンティストの発想としては、人間が何かを生み出すのではなく、統計的事実が人間を上回る。人間が機械に教えるのではなく、機械で生成されたデータが唯一の真実なんです。人間の行為は信じません、みたいな(笑)。」

は、そのようなものとして理解するべきだと思います。
実際、中竹さんも、
「哲学的になっているということですね」
と述べています。

たしか『女優マルキーズ』だったと思いますが、ルイ14世の前で、学者が神の存在証明をする、という映画の1シーンがありました。
ルイ14世はデカルトより少し後の人です。
デカルトが亡くなったときに11歳だったルイ14世は、既に即位していたものの、フロンドの乱のまっただ中で苦しい時期を送っていました。
映画の設定は、それよりも後、絶対王政を確立し、太陽王として栄耀栄華を極めていた頃です。
うろ覚えですけど、白いおしろいを塗りたくった学者は、

「もし神がいないとしたら、この世がこれほどまでに素晴らしいわけがない。
よって、神は存在する。Q.E.D.(証明終了)」

と叫んで、興奮したようにレースのハンカチを震わせていました。
学問的な証明というより、王権神授説を前提に王を称える詩のようなもので、割り引いて考える必要はあるのでしょうが、それにしても、なんて雑な証明だろうねえ、と笑ってしまった記憶があります。

でも、これから笑われるのは、私たち大人ですね。
統計的事実が頂点に立つ「近代の次の時代」に本格的に入ってくると、
「コイツには、毛が生えていて、ひげがあって、気まぐれで、ニャーンと鳴き、寒いとこたつで丸くなっている。だから猫だ」
みたいなことを言うと、近代を知らない若者たちに、
「なんて雑な証明なんでしょうねえ。これだから近代の人はダメなんだよな。もう少しちゃんと、統計的に説明してくださいよー」
なんて言われちゃうんでしょうね。
ああ、ショック!
詩人のハイネは「カントは神様の首を切り落とした」と評したそうですけど、そのカントが生まれたのはデカルトの死から74年後です。
時代の変化のスピードが速くなっていますから、あと20年、30年くらいで人間の理性の時代は完全に終わるんでしょうかねえ、はあ。

以上は、『反哲学史』(木田元著)、『キリスト教の歴史』(小田垣雅也著)をだいぶ前に読んだときに作成したメモをもとに書きました。
他の本を読んで知ったことも入っているはずですが、いろいろ読んできたので、書名を特定できませんでした。
いずれにせよ、専門家の方から見たら、穴だらけの記述だろうと思いますので、コメント欄にてご指摘をいただけましたら幸いです。
よろしくお願いいたします。
私自身の話ですが、デカルトに至るまでを丁寧にたどってみたくなったので、帯に「「近現代」の出発点はここにある」と書かれている『中世哲学への招待』(八木雄二著)を再読しようかな、と考えています。

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プロフィール

渡辺リエラ
1969年東京生まれ。1988年東京大学文科1類入学。1992年東京大学法学部卒業。出版社勤務、専業主婦を経て、現在、別名義にて大学講師などとして活動中。2007年7月第1子「みーちゃん」誕生。
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