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なぜ日本人は英語を学ぶべきなのか

最近、日本企業で英語を公用語化するとか、大学受験でTOEFLを必修化する、みたいな話をしょっちゅう耳にします。
そんなこと、果たして、する必要があるんでしょうかねえ。
そこで、なぜそういう話が出てくるのか、軽く調べてみました。
で、わかったこと。
別に日本人自身のために、公用語化せよ、とか、必修化せよ、と主張しているわけじゃないみたいですね。
なーんだ。

例えば、「英語化が成功したら日本に対する最大の貢献だと思う」三木谷浩史・楽天会長兼社長に聞く(その3)で、三木谷会長は、
「海外から来て、日本人が日本語でやっているのと、役員会も全部英語で全員話せるというのでは、全然違うじゃないですか」
と言っています。
つまり、外国人が日本に来て働きたくなるように、英語化をすべきだ、ということ。
日本人のため、ではないのですね。
なーんだ、がっかりです。

青色発光ダイオードを発明し、勤め先・日亜化学工業を訴えた中村修二・米カリフォルニア大学教授も、同様。
国を作り替えないと日本に外国人は来ない 中村修二・米カリフォルニア大学教授に聞く(前編)では、
「英語ができる国にしないとまず来ない」
に加えて、
「言葉は企業だけではダメでしょう。小さい頃から変えないと。例えば、小学校では英語以外しゃべらないとか。国語も英語にする。保守的な人が「とんでもない」と言いそうですが、学校では勉強も遊びもみんな英語にする。週何時間か授業でやるだけでは無理ですよ」
とまあ、保守派がぶっ飛びそうな過激なことをおっしゃっています。
でも、その目的は単純。
要するに、外国人を連れてくること、なんですよね。
なーんだ。

以下は私の考えですけど、子どもの将来で述べたように、「知・情・意」にざっくり分けた場合の「情」にかかわる仕事に従事するならば、英語を話せなくても日本国内で生きていけると思います。
「情」とは、たとえば、介護職、看護師、癒し、娯楽。
要は、日本人だけを顧客としてもなんとかやっていけそうな職域です。

一方、「知」や「意」にかかわる職域を選ぶなら、外国語、少なくとも英語は必要だろうな、と思います。
つまり、「知」や「意」にかかわる人は、同僚となる外国人が気持ちよく働けるように、英語に精通しておくべきでしょう、ということ。
その点は、三木谷会長や中村教授の主張と同じです。
ただ、それにプラスして、私は、「知」や「意」にかかわる予定のある日本人は、自分自身のために英語をマスターしておくべきだ、と思います。

その理由は、論理性を身につけるため。
日本語で論理性を身につけることも不可能ではありませんが、実は英語で論理性を身につけるほうがラクなんじゃないか、という趣旨です。
意味わからん、とおっしゃる方は、 まずはベネッセ教育研究開発センターサイトの「日米仏の思考表現スタイルを比較する──3か国の言語教育を読み解く──」辺りを読んでくださいませ。

先へ行きますと、つまりこれは、英語を使ってコミュニケーションの力を鍛えるか、日本語を使ってコミュニケーションの力を鍛えるか、の問題だと思うんですよ。
コミュニケーションというと、仲良くすること、飲みコミュニケーション、みたいな連想をする方もいらっしゃると思いますが、ここでいうコミュニケーションはそうではなくて、乱暴に一言にまとめてしまえば、論理的表現力だと思います。
背景の異なる人々が互いに理解しあう(コミュニケーション)ためには、共通のルール=論理が有効なのではないか、という趣旨です。

で、その論理的表現力を鍛えることは、理屈の上ではどの言語でも、つまり英語でも日本語でも可能なはずです。
ただ、実際問題としては、英語で鍛えるほうがラクかなあ、と思います。
なぜなら、英語はローコンテクスト(文脈への依存度が低い)で、言いたいことはなんでもルールに則って言語化していかないといけないから、その過程で自然に、というかやむにやまれず、コミュニケーションの力(論理的表現力)が鍛えられてしまうはずだからです。
ただし、1つだけ条件があって、それは、日本ガラパゴスな英語教育ではなくて、グローバルな英語教育を施せば、という条件なのですけどね(しかも、この条件がけっこうハードル高いわけですが)。
反面、英語を使ってコミュニケーションの力を鍛えることには、弱点もあります。
それは、日本人にとって母語ではないことです。
だから、自分が外国語を学んでいるのか、それとも、論理的表現力を鍛えているのか、混乱して成果が上がらないとおっしゃる、緻密な脳みその持ち主もいるかもしれません(その両方を同時に学習しているはずですが、そのアバウトさを受け入れられない人がいるかもしれない、ということです)。

他方、日本語を使ってコミュニケーションの力を鍛える際は、母語を使う点でハードルが低いが、ハイコンテクスト(文脈への依存度が高い)な言語で、ローコンテクストなコミュニケーションの練習をしようとするので、なんというか、“翻訳調”な違和感が出ます。
そこでつまずく人もきっといると思うし、そこがどうしても嫌だ、とおっしゃる人もいそうな気がします。

つまり、英語を使ってコミュニケーションの力を鍛えるか、日本語を使ってコミュニケーションの力を鍛えるかは、けっこう好みの分かれる問題ではないかと感じるわけです。
それから、良き指導者に出会うことができた場合に、その指導者が英語派か日本語派か、がおそらく決定的に重要ではないかと考えています。
現時点では私は、良き指導者に出会えるならば、前者のほうがラクではないか、と思っています。
あるいは、英語と日本語両建てで鍛えるか。
というような意味で、私は、「知」や「意」にかかわる可能性のある日本人は、自分自身のために英語をマスターしておくべきだ、と考えているわけです。

【追記】
続編「コミュニケーション力(論理的表現力)をどう鍛えるか」を書きました。

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プロフィール

渡辺リエラ
1969年東京生まれ。1988年東京大学文科1類入学。1992年東京大学法学部卒業。出版社勤務、専業主婦を経て、現在、別名義にて大学講師などとして活動中。2007年7月第1子「みーちゃん」誕生。
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