最近、みーちゃんの将来について考えています。
あ、もちろん、みーちゃんの将来はみーちゃん自身が決めるんですけど、
「あたし、○○することにしたから」
と言われた時に、せめて、○○が何か、知っておきたいじゃないですか。
できれば、○○することにした理由もある程度察することのできる親でありたいし、100%でなくても賛成することのできる親でありたい。
ずいぶん、大げさ?
そうかな?
だって、私たち子育て世代(幅はあるけど、面倒なので、くくっちゃいます)が就職活動したころの世界と、今の大学生が参入しようとしている世界は、全然ちがうんですよ。
「はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記」を書いているkawangoさんは、ニコニコ動画の運営会社であるドワンゴの代表取締役会長・川上量生氏であると言われていますが、彼は、1か月ほど前のエントリ「いま大学生だったら、どういう人生を選ぶか?」で、こんなことを書いていました。
「いまの就活はぼくの頃よりもずいぶんと難しい。なにを基準に考えていいかがはっきりしないのだ。大企業にいってもつぶれそうな気がするし、ベンチャーはベンチャーで信用ならないし、唯一の安全パイに見える公務員すら、国も地方も財政破綻目前なのだから、どうなるかまったく安心ならない。ようするに日本全体がいまやばいかんじなので、どこいってもやばさから逃れられる気がしないというのが、現実なのだ」
今の世の中を相当見通せているであろう人も、こう言っているわけです。
でも、
「ニコ動の人の言うことなんて、信用できないわ」
とおっしゃるコンサバなママもいるかもしれないので、こっちも挙げときます。
英エコノミスト誌・2011年9月3日号「高学歴者の苦悩:大学は出たけれど・・・」です。
詳しくは記事を読んでいただくとして、関係ありそうなところを、引用します。
「先進国のエリートたちは次第に、彼らより少ない給料でより一生懸命働く新興国のエリートと競争せざるを得なくなっている」
「中級の仕事が賢いコンピューターに奪われ、ハイレベルな仕事も伸び悩む」
「これまで大卒者が伝統的にこなしてきた仕事の方がむしろ、給料の低い仕事より海外に流出しやすいと言う。配管工やトラック運転手の仕事はインドにアウトソースすることはできないが、コンピュータープログラマーの仕事なら可能だからだ」
要するに、みーちゃんが大学生になる頃には、「いい大学に行って、いい会社に入って」の賞味期限が切れているわけです。
さりとて、別の解もなし。
で、今、漠然と考えていること。
日本国内で生きていくなら、「知・情・意」の情か意にかかわる仕事だろう。
「情」とは、たとえば、介護職、看護師、癒し、娯楽。
「意」は意思決定かな。
とすると、これに携わる人は極めて少数だし、世界的視野が必要だ。
情以外の職域を選ぶなら、どこでも暮らせる適応力と語学力が必須。
それとともに、自分の適性なり能力なりを見極めて、それを伸ばしていく努力をする。
とすると、必要なのは、精神的、肉体的なタフさ、自分を客観視できる知性、集中力など。
それを鍛える手段として、何を選ぶか(勧めるか)は、親の仕事かな。
そう考えると、いわゆる受験勉強も、なかなかいいと思う。
ただ、手段であることを忘れて目的化しがちなところが、危険かも。
もちろん、久保建英くんのようにサッカーでもいいし(「久保建英くんはどのように育てられたか」を見てください)。
あとは、バレエとか。
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Comment
「精神的、肉体的なタフさ、自分を客観視できる知性、集中力」激しく同意です。
結局、「自分の頭で考え、答えを出し、生き抜く力」が必要なのかと。
我々の世代は、東大法卒→大企業・官庁→将来安泰、と「思考停止かつ丸投げ」の人生観だったと思います。
genyさん
コメントありがとうございます。
危機感を共有できる仲間がいて、とても嬉しいです。
これからもともに語り合って、子どもたちが「思考停止かつ丸投げ」ではない人生観と、「自分の頭で考え、答えを出し、生き抜く力」を持てるよう、知恵を絞っていきたいですね。
どうぞよろしくお願いします。
こちらこそどうぞよろしくお願いします。
まずは、子供たちには「物事の本質」を認識する能力、認識しようという意欲を身に付けてほしいです。
世の中の情報はcommercialismをはじめ、様々な思惑によって加工されています。
その中で「本質」を認識することができれば、サバイバル能力が向上するのではないでしょうか。
genyさん
コメントありがとうございます。
「「物事の本質」を認識する能力、認識しようという意欲」……たしかにサバイバルには必要ですね。
でも、難しい……大人にとっても。
いろんな人のいろんな思惑にまどわされず、本質を見出す能力を身につけるには、どうしたらいいんでしょうか……?
1つ思うのは、小さい頃から、目に見えないもの、抽象的なものの認識能力を上げておくといいのかな、ということ。
神社にお参りしたら、「この中には神様がいるんだよ」とか、お墓参りしたら、「ここにはあなたのご先祖様が眠っているんだよ」とか。
「抽象的なものの認識能力」、非常に大切だと思います。
「物事の本質」は「言葉」「外見」などの表面的なものではなく、「表面からにじみ出るもの」に表れると考えます。それはまさに抽象的なものです。
ただ、「抽象的なもの」を認識するには、まず「目の前の現実」を正しく認識することが必要だと考えます。
現実を正しく認識することで、「先祖」「神様」の意味(ありがたさ)も心から理解できるようになると思います。
そして、現実を正しく認識するには、「目の前の現実」に対して「本当か?」と自問自答を繰り返し、検証を続ける習慣が必要なのではないでしょうか。
冷徹に感じられるかもしれませんが。。。
genyさん
コメントありがとうございます。
「「目の前の現実」に対して「本当か?」と自問自答を繰り返し」で思ったのは、鏡を見て「ここに映っているのは本当に私だろうか」と疑問を持ったのは、いつのことだったか、ということです。小学校高学年くらいだったかなあ…
「私の顔は本当にこういう顔なんだろうか。確かめたくても不可能だ」と考えたら、猛烈に怖くなりました。
デカルトとか、そういう近代西洋哲学に触れさせるのがいいのか、あるいは、もっとジャーナリスティックに事実そのものに触れさせるのがいいのか、どうなんでしょうかねえ? 子どもがどういう疑問を持つか次第なのでしょうね、たぶん。親の“感度”が試されますね…
サバイバル能力に関して言えば、「ジャーナリスティックに事実そのもの」が重要だと思います。
子供たちが生き抜くべき社会は、「合理性=近代西洋哲学」と「非合理性」がないまぜになった世界なのではないでしょうか。(バブルはその典型だと思います)
ただ、そんな「身も蓋もない現実」を「いつ」「どのように」子供に伝えるかは、私も答えが出ていません。
少なくとも、日本の学校で「本当のこと」を言うといじめられるでしょう(教師からも)。できることなら、「文脈=空気」への依存度が低く、「言語」でのコミュニケーションを重視する海外の学校で学ばせたいのですが。。。
genyさん
コメントありがとうございます。
重要な話だと思うので、返信は新しい記事として書かせていただきます。
引き続き議論をよろしくお願いします。