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『おっさんずラブ』と『摩利と新吾』から学ぶ、ホモソーシャルな集団の中での女性の振る舞い方

11歳になり、みーちゃん、と「ちゃん」付けで呼ぶのもためらわれる年齢になりましたが、最近、ウチの子ども(生物学上は女と思われます)が、
「ぼくは男になりたい。でも、かわいくなりたい気持ちもある。かっこよくなりたい気持ちと、かわいくなりたい気持ち、両方ある。ぼくは自分がわからない。どうしたらいいのか、わからない」
と言うのです。
そのとき、私としては正直に、
「あたしにもいまだにわかんない問題をさぁ、ちょっと、そうやって突きつけないでよねぇ」
と言いたかったのですが、親として、一人の大人として、そういう対応はいかがなものかと思ったものですから、つい、
「男になるとか、女になるとか、と決めつけなくていい。あなたは、あなたになればいいんだから」
と、どこかの台本に載っていそうな、玉虫色の回答をしてしまいました。

でも、良心の呵責と言うんですかね、つい、うっかり、付け加えてしまったわけですね、
「男にだって、かわいくなりたい気持ちはあるんだよ。例えば、『おっさんずラブ』というテレビドラマがあってね、それは、おっさんが自分の中のかわいくなりたい気持ちに気付いてしまった話なんだよ」
と。
ああ、神様、私はなぜいつも余計なことを言ってしまうのでしょうか!

「おっさんずラブ」の舞台は、大手不動産会社の、都内近郊にあると思われる営業所です。
会社はもちろん、高校の部活、大学のサークルも。
この国のあらゆる男性中心の集団は「ホモソーシャル」じゃないか、と私は思っています。

男同士の連帯をめぐる問題を歴史的に研究した『男の絆─明治の学生からボーイズ・ラブまで』(筑摩書房)の著者である前川直哉さんへのインタビュー記事日本は巨大な男子校!? なぜ“ヘテロ男性”だけが正常とされているのかから引用しますと、
「ジェンダー研究者の江原由美子さんが行った調査によれば、「男子校男子/共学男子/女子校女子/共学女子」の4パターンの中で、男子校男子だけが突出して性差意識が強く、また固定的な性別役割分業(=「男は仕事、女は家庭」といった)に肯定的な意識が強かった(「男子校高校生の性差意識」『フェミニズムのパラドックス』所収)」とされています。
そして、「明治時代のエリート校はすべて男子校で、そこの出身者たちが国や企業の中心を担い、この国の制度やシステムを作ってきた。そういう視点で見ると、もはや社会的な問題ですよね」と。

実際、東京大学の同窓生から聞いた話ですが、大学入学後初めての学内のコンパ(女子約5名、男子約45名)で、
「女子はバラけて座って、男子にお酌をしろ!」
と言い放った男子がいたそうです。
今から約30年前の話ですので、出身校名は温情で特別に伏せてあげますけど、都内の超有名男子校だったそうな。
私がもし現場にいたら、間違いなく、仁王立ちになって、
「国からプレッシャーを受けて棄教するような弱っちい学校を出た奴が、偉そうな口をきくな。テメーのほうが、戦争中もキリスト教を守り通した学校の卒業生に、お酌するんだよ!」
と怒鳴っていたことでしょうね。
ほんとに、その場にいたかった!

あ、私の母校は東洋英和女学院といいます。
これで、「お酌しろ」男子の母校も、わかる人にはわかっちゃいますね~昔は東洋英和学校と呼ばれていた学校ですから。
もちろん、この学校を出た人が全員そうだというわけではありませんよ……それでも、ああ、ほんとに腹が立つ!

という次第で、本稿のテーマは、生物学上の女が、ホモソーシャルな集団の中でどのように振る舞ったらよいか、です。
この点では、私もそこそこ苦労しましたが、ジェンダー・アイデンティティが小学生にしてすでにグチャグチャな子どもは、私以上に苦労するだろうな、という予感があります(マジ、どうすんねん……まあ、精神科でカウンセリングを毎週受けて、だいぶ頭の中がスッキリしてきたようですが。なお、「ジェンダー・アイデンティティ」については「比較ジェンダー史研究会」の【用語】ジェンダー(執筆者・三成美保氏)が勉強になります)。
子どもが学校に行かなくなった理由も、突き詰めると、そこなのかもしれませんね……というわけで、これは親である私にとって、今の最優先テーマなのです。

こう言うと、
「それは、アンタが女で、子どもが女だからでしょ。ウチは倅だから関係ない」
とおっしゃる男性もいると思いますが、その認識は、イマ的には危険極まりないと思います。

情報労連サイトの前川直哉さんへのインタビュー記事「男の絆」から生まれるセクハラ 「ホモソーシャル」を知っていますか─男性から男性に対するセクハラとは?は、「ホモソーシャルなセクハラ」の例として「「下ネタ」を無理強いしたり、性風俗やキャバクラに無理やり連れて行ったり、新入社員に裸踊りをさせたり」を挙げ、「これらも当然セクハラに当たります」と言い切っています。
今、ドキッとした人、いるでしょ~?

別の前川直哉さんへのインタビュー記事社会を“男の絆”で占有する強固なロジック 「ホモソーシャル」の正体とは?では、「例えば男同士連れ立って風俗やキャバクラへ行ったり、男たちが下ネタで盛り上がったりするのは、ホモソーシャルの典型的な風景です。最悪の形になると、度々ニュースを騒がせている名門大学生による強制わいせつ事件のような惨事にもつながると思います」としています。

つまり、今、ホモソーシャルをわかっておくと、この先、ご自身やご子息が思いがけず犯罪者や時の人となって人生が大きく変わる、という可能性を、おそらくなくすことができるのではないでしょうか。

「いやいや、ウチには子どもがいないから」
「息子はいるけど、名門大学生ではないよ」
とおっしゃる男性もいるかもしれないけれど、前掲日本は巨大な男子校!? なぜ“ヘテロ男性”だけが正常とされているのかから引用しますと、
「国税庁「民間給与実態統計調査」によれば、ここ15年で30代後半男性の平均年収は約80万円も減り、もはや自分の親世代のようには稼げない。しかし「男が稼がねば」というプレッシャーはキツイまま。「男の生きづらさ」がクローズアップされているのも、そういう背景があるからでしょう。しかし、性別役割分業を始めとする男性を苦しめている仕組み自体、実はホモソーシャルが生み出したものなわけです」

つまり、ホモソーシャルな社会では、ほとんどの男性も幸せになることができないのです。

ということで、はい、よろしいですね、ここからみんなで、生物学上の女が、ホモソーシャルな集団の中でどのように振る舞ったらよいか、について考えていきますよ。

そもそもなぜ、「女の」振る舞い方が問題となるのでしょうか?

ウィキペディアによると、ホモソーシャルとは、「恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性を意味する社会学の用語」で、「男性間のホモソーシャルは体育会系などで顕著に見られる緊密な絆で、しばしばミソジニーあるいはホモフォビアが伴う」。
ミソジニーとは、ウィキペディアによると、「女性嫌悪」「女性蔑視」で、「男性側のミソジニーの例として、女性に対する性的暴力やセクシャルハラスメント、制度的差別など」。
「女性側においてミソジニーは、女性の体に対する羞恥心、拒食症などの摂食障碍、性的機能不全、鬱病、女性であることに起因する劣後感や無価値感」。
女性自身にもミソジニーがあって、その場合は自分を否定する方向になるわけですね。
ちなみに、ホモフォビアは「同性愛嫌悪」です。

なぜ、ホモソーシャルはミソジニーやホモフォビアにつながるのでしょうか?
情報労連サイトの前川直哉さんへのインタビュー記事「男の絆」から生まれるセクハラ 「ホモソーシャル」を知っていますかによると、
「ホモソーシャル(男性ホモソーシャル)とは、男性同士の結び付きや“男の絆”を意味する言葉です。ホモソーシャルな社会では、男性が公的な社会を担う性別だとされます」
「公的な社会での男性同士の結び付きは、恋愛とは違う特別な関係性でなければいけません。その関係は「友情」であるとされ、男同士の友情こそ尊いものとされます」

理性をもつ公的な存在である男性。
その恋愛の対象となる女性は、感情的で、私的な存在、つまりは格下の存在ということですね。
かつ、男性同士の結び付きも同性愛=恋愛(感情的なもの)ではありえず、それは理性的な友情なのであるとアピールするために、下ネタや風俗が利用されるわけですね(ああ、やだ、やだ)。

それゆえ、前掲社会を“男の絆”で占有する強固なロジック 「ホモソーシャル」の正体とは?が分析するように、
「実際のホモソ男子やホモソを描いた作品などを見てみると、そこに存在する女性像って、男たちのお世話をする「マネージャー」か、高嶺の花みたいな存在の「姫」か、一緒に戦える男勝りの女という意味の「名誉男性」の3種類くらいしかない」
「その女性たちの複雑な内面が描かれることはほぼなく、与えられた枠組みから決してはみ出さない」

だから、我々女は、生物学上の女として生まれると必然的に、ホモソーシャルな集団の中で「マネージャー」「姫」「名誉男性」のどのパターンで生きていくかを決めないといけないし、その枠からはみ出すならば、それなりのリスクを取って、振る舞い方を試行錯誤しながら自分で考えていかないとならないわけです。

これだけ言えば、生物学上の女が、ホモソーシャルな集団の中でどのように振る舞ったらよいか、という問題の立て方が適切であるとご理解いただけるかと思います。

さて、私が初めてホモソーシャルという言葉と出会ったのは、『独身者の思想史』(土屋恵一郎著、岩波書店、1993年)でした。
偶然のぞいた丸善の岩波フェアで、なんとなくひっかかって、手に取った本でしたが、とても面白かったです。
土屋先生は今、明治大学の学長でいらっしゃいますね(だからお忙しくて、最近はあまりそっち系の論考を発表されていないのかしらん)。

同書では、ホモソーシャルを「ホモ・エロティックな関係の弱い形の同性男性への友情」としています。
これは、1988年に発表されたG.S.ルソー・カリフォルニア大学教授の論文の付記で行われた定義とのこと。
男性同士の友情はあるけれども、(肉体的な)同性愛まではいかない、ということですね。
E.M.フォースターの『モーリス』で言えば、クライヴの立場ですね(一部の人にのみピーンと響く話です。わからない人はスルーでまったく大丈夫です)。

私は「おっさんずラブ」を観たとき、この『独身者の思想史』で引用されていたジョン・ロックの手紙を思い出しました。
ジョン・ロックは、17世紀のイギリスの哲学者。
社会契約論で、チョー有名な人です。
近代国家の礎を築いた人と言っていいでしょう。
彼は60歳のとき、36歳のウイリアム・モリヌーズ(男性)と文通をはじめまして、例えば、
「私が抱きしめたいといつも熱望しつづけてきた人と会うことができる、その幸福な日を激しく願わずにはいられない。とはいっても、その人の親切のおかげであたえられる贈り物もあるけれども、私が望まずにはいられないことは、ただその人を私の腕のうちに抱く幸運だけである」
という手紙を送っているのです。
「抱きしめたい」に、「私の腕のうちに抱く」ですよ!
むっちゃ情熱的なわけですが、現実にはモリヌーズは早くに病気で亡くなっております。
実態としては、土屋先生の言う通り、ロックとモリヌーズの関係は「具体的かつ現実的な同性愛の関係」ではなく「同性同士の関係のなかでの、プラトン的愛」「真理への愛と男性同士の友情、しかも老人の哲学者と若い称賛者との関係」なのでしょう。
あ、プラトンというのは、古代ギリシャの哲学者の名前です。
ホモソーシャル系のご先祖様、くらいなイメージの人です。

で、この手紙、「おっさんずラブ」の黒澤部長(50代)が、はるたんこと春田創一(30代)に送った手紙、と言われても納得しそうな文面じゃありませんか?
黒澤部長は、はるたんに出会って、「自分の中のかわいくなりたい気持ち」に気がついてしまい、猛烈なアタックを開始します。
ですが、考えてみると、黒澤と春田の関係も、結論としては「具体的かつ現実的な同性愛の関係」に至りませんでした(もう、ネタバレ、いいよね)。
会社の業績アップという目的を共有する、リーダーシップあふれ尊敬される上司と、信頼される部下、という関係です。
真理探究という目的を共有する「老人の哲学者と若い称賛者との関係」に、すっごい似てるじゃん。

なお、前掲「男の絆」から生まれるセクハラ 「ホモソーシャル」を知っていますか─男性から男性に対するセクハラとは?では、「同性愛的なセクハラ」の例として、「男性が同性に対して権力関係を利用して関係を迫るケース」を挙げていますが、黒澤部長ははるたんの上司ではあるけれど「権力関係を利用」せず、自らの人間的魅力でひたすらに攻めているので、セクハラではない、と信じていますよ、私は。

で、次は、たぶん、今、
「17世紀のロックなんか知らん。今は21世紀である。だから、黒澤部長のはるたんへの思いはホモソーシャルな友情などではなく、恋愛感情と呼ぶべきものだ」
と感じている人がいると思うので、その点について考えますよ。

「おっさんずラブ」を観たとき、私はジョン・ロックの手紙と同時に『摩利と新吾』(木原敏江著、白泉社、1977年-1984年)を思い出しました。
木原敏江先生は、今はそれほど有名ではないのかもしれないけれど(くやしい!)、漫画評論家の米沢嘉博氏は『戦後少女マンガ史』(ちくま文庫、2007年)で「木原敏江こそ少女マンガそのものであり、木原敏江のマンガを嫌いなものは基本的に少女マンガファンではありえない」とまで言っています。
そういう少女マンガ史上、極めて重要な漫画家さんです。

『摩利と新吾』は、木原敏江先生が描いた、戦前の旧制高校を舞台とした青春ドラマです。
明治時代の末期、鷹塔摩利(たかとうまり)と印南新吾(いんなみしんご)が、名門旧制高校の持堂院高校に入学するところからはじまり、第一次世界大戦、関東大震災、第二次世界大戦を経て、彼らの死後までを描く、涙なしに読み終えることのできない歴史ロマンです。

主人公の摩利は、日本の伯爵家の嫡男で、日独ハーフの同性愛者。
ソフィスティケートされた貴族文化の中で育ってきたことと、幼い頃から「混血」といじめられてきたことから、かなり早熟です。
対応するのが、「おっさんずラブ」の牧遼太
牧の実家、春田が牧のお父さんに挨拶するシーンでちらっと映りましたけど、けっこう立派でした。
旧華族じゃないだろうけど、地元の名士の家、という雰囲気でしたよね。
牧は、本社で実績を残した後、営業所に異動してきました。
つまり、仕事ができる設定です。
そして、ソース顔のイケメンで、同性愛者。
同性愛者として苦労してきたからか、若い割に、世慣れているというか、地に足がついているというか、腹が座っています。
料理など家事が人並み以上にできるところも、摩利くんと同じです。

もう1人の主人公、新吾に対応するのが「おっさんずラブ」のはるたんこと春田創一です。
極めて鈍感、お人好しで、しょうゆ顔(ないし純ジャパ設定)なところが、もろ共通点。
両親不在なのも、同じです(新吾の両親は不慮の事故で亡くなり、春田の父は登場せず、母は春田の自覚を促そうと物語冒頭で家を出る→だから、親以外の誰かが、彼らが大人になる手助けをする展開となる)。

摩利を留学先のドイツまで追いかける同性愛者、春日夢殿先輩に対応するのが、牧の元カレ、武川主任
しびれるような、くさいセリフを発するところも、大笑いしちゃうくらいに、そっくりです。

春田に恋して、乙女になってしまう黒澤部長に対応するのは誰か……これは少し考えました。
が、結論としては、摩利くんの父、鷹塔思音(もね)伯爵と考えます。
理由は、「自分がもっと年上だったら、新吾を包み込めるのに」と悔しがったとき、摩利くんの頭の中に浮かんだ理想像は、おそらく自分の父親だっただろう、ということ。
摩利くんとしては、自分が大人になって、新吾の成長をじっくり見守ることができれば、2人は付き合える、という確信があったんだろうと思うんです。
そして、実は鷹塔伯爵もまた、かつて持堂院高校の生徒であった頃、親友である印南隼人(はやと)、つまり新吾の父に対して恋愛感情を抱いていた。
だから、2代にわたる恋を成就させるために伯爵が一肌脱ぐというストーリー展開は、ありえなくはなかったはずです。
しかし、伯爵はそれを拒否しました。
摩利の新吾に対する恋情に気付いたときの鷹塔伯爵の顔は“斜線”でした。
かつての自分の苦しみを思い出したのか?
あるいは、跡継ぎを残さなければならない華族の家なのに、2代続けて当主が同性愛者とは……と運命を呪ったのでしょうか?
いずれにせよ、伯爵は摩利と新吾をどちらかと言うと引き離すような言動に出ます。

その一方で、鷹塔伯爵は、両親を亡くした新吾に対して経済的な援助を(しようと)しています。
新吾の父・隼人との約束を守る限りにおいて、新吾とかかわろうとしたのです。

このように、伯爵の新吾へのかかわりに隔靴掻痒感があるからこそ、摩利は新吾に振られたんだなあ、と今回ようやく気付いたわけです。
仮に摩利の気持ちに父・鷹塔伯爵が気付いたあと、伯爵が「おっさんずラブ」の黒澤部長のように、いわば道化になって新吾にグイグイとアプローチしていたら、新吾は摩利を受け入れる心の準備ができたと思うのです。
「貴方がかっこつけてブレーキ踏んでいるから、摩利くんは苦しんだんだよ」
と伯爵に言ってやりたいと思いました。
でも、それは戦前の設定ではさすがに無理だと思うし、もしそうなったら、もはやそのストーリーは『摩利と新吾』ではないですね。

私、『摩利と新吾』がとても好きな反面、ずっと、とても嫌いだったんですけど、それは新吾が摩利に対してNOと言った後の摩利の、「新吾の友達であり続ける」という意地の張り方が、極めて不自然に思えたからなんですね。
昔の人はそうやって意地を張って生きていたんだ、と言われれば、そうなんだろうとは思うし、かっこいいと称えたい思いもあるし、私自身、伝統ある女子校で学び、和装の先生方から戦前の女学校の雰囲気をたっぷりと受け取ってきてはいるのですが、やっぱり、第二次世界大戦後、参政権を獲得し、フェミニズム運動や、さらには #MeToo を経た今となっては、摩利の意地の張り方に共感することは、ちょっとできません。
だから、今回「おっさんずラブ」で牧と春田がくっついたので、私は、ほぼ1世紀の眠りを経て摩利と新吾がようやくうまくいったような気がして、とても嬉しかったし、『摩利と新吾』への長年の違和感から自分自身が卒業できて、心の底からホッとしたんです。

「なに言ってんだかわかんない」
とおっしゃる人は、「おっさんずラブ」ベースで考えてみてください。
黒澤部長が、いつまでもはっきりしない子どものような春田を、母親にさえ匙を投げられた春田を、大人にしたんです。
黒澤部長は、鷹塔伯爵のように、かっこをつけなかった。
正直な思いをぶつけて、恋破れ、泣きながら、若い牧に春田を託したんです。
そう考えると、黒澤部長が助っ人なのは、つまり、黒澤部長のはるたんへの思いが成就しないのは、最初から決まっていたわけですね。
そして、その思いは友情の枠から、つまりホモソーシャルの枠から決してはみ出さなかったのです。

たしかに、鷹塔伯爵と新吾の関係と異なり、黒澤部長と春田は1対1で向き合った関係ではありました。
愛の告白から、結婚式までは、進みました。
しかし、思えば、いつも芝居がかっていました。
冗談ぽい、リアルじゃない雰囲気が常に漂っていましたね……(それはそれで切ないんだけど)。

つまり、「おっさんずラブ」は、春田のビルドゥングス・ロマンなのです。
大人になりそこねて、30代になっても子どものようにフラフラしていた春田が、ホモソーシャルな関係によって成長を遂げ、大人になる物語。
今、こういう人は多いと思うんですよね。
人生100年時代ならば、30代なんてまだまだヒヨッコですからね。
急いで大人になる必要なんて、ない。
その分、逆に、春田のリアリティは、すごーくあるわけです。
他方で、黒澤部長のようにホモソーシャルな文脈の中で若者を引っ張り上げる力量と余裕のある大人は、残念ながら減っている。
だから、春田と黒澤部長の「おっさんずラブ」が普遍性をもったんじゃないでしょうかね。

どこかで、春田だけでなく、牧や黒澤部長も成長している、と書いているエントリを見かけましたが、それはまったく違うと思います。
牧や黒澤部長は少しも変わってない。
牧は最初から仕事ができるし、家事もできるし、腹も座っています。
自分というものをもっているから、自分からアクションを起こす。
考えてみてください、「おっさんずラブ」のストーリーを動かしているのは誰ですか?
牧です。
春田の家に引っ越してきたのは牧だし、「付き合ってください」と言ったのは牧だし、「別れましょう」と言ったのも牧、「話があります」と復縁のきっかけをつくったのも牧。
最初に牧に「うちに来ない?」と言ったのはたしかに春田だけど、それは母ちゃんが出ていって日常生活に困っていたし、牧の作る唐揚げに釣られたから。
必要に迫られたがゆえの誘いであって、主体的な選択とは呼べません。
春田は自らは動かず、牧や黒澤部長の言動に反応しているだけです。
リアクションだけで魅せてくれた田中圭は、だから役者として目が離せないよなあと思うけど(私は『残念な夫』から田中圭の受けの芝居が好きです)、それはさておき、黒澤部長も変わっていない。
(元)妻の蝶子が整理してくれたような黒澤部長の魅力、つまり、「行動力、包容力、経済力、家庭的、大人の色気」などは、第1回から最終回まで、一切変わらない。

で、はあ、やっと本題に入れます、黒澤蝶子の話です。
「おっさんずラブ」と「摩利と新吾」を比べて一番違うのは、蝶子のポジションなんですよね。
1世紀という時の流れをしみじみと感じます。

「摩利と新吾」では、蝶子に対応するポジションの鷹塔夫人のマレーネは、すでに死亡しています。
この世にいないんです。
回想シーンに出てくるのはいつも、優しくて儚げな笑顔。
しかし、「おっさんずラブ」の黒澤夫人、蝶子は生きていて、しかもリアルに怒り、動揺します。
自分から離婚届を出すことでプライドを示すかと思えば、子どものような年齢の、夫の部下、麻呂の胸で泣いたりします。
ためらいなく、ゆらぎを見せます。
正解のない人生を体当たりで生きているところにリアリティがあります。

蝶子に比べて損をしたのは、荒井ちずですかね。
春田の幼馴染で、自らの春田に対する恋愛感情に気付き、勇気を出して告白までしたのに、結局振られてしまった。
鈍感・お人好しキャラに振られたという意味では、「摩利と新吾」の高嶺の花、つまり「姫」ポジションの吉野姫花と同じです。
しかし、キャラクター設定として、高嶺の花というほどのスペシャル感はない。
幼馴染みだから、強いて言えば「名誉男性」ポジションに近いかもしれません。
だから、ちずは営業所のメンバーではないんだけれど、春田への恋愛感情に蓋をして、春田の近くにいる(だけの)「名誉男性」的なポジションにとどまっておけばラクだったろうに、とは思います。

しかし、ちずは自分の気持に忠実に行動しました。
「摩利と新吾」で新吾夫人となる一二三(ひふみ)が徹頭徹尾、自己犠牲の人(つまり「マネージャー」ポジション)であったことを参照すれば、ちずは「名誉男性」ポジションと「マネージャー」ポジションの合わせ技で行くべきだったと言えそうですけど、私は、ちずに自己犠牲が足りなかったとは思えないし、21世紀になってまで、そんなことは言いたくありません。
言えるとしたら、せいぜい、「自分の気持ちに気付くのがちょっと遅かったね」とか、「もっと賢く立ち回るべきだったね」とか?
たぶん、#MeTooを経た今日、もうこれまでの常識が通用せず、女自身もハンターになったつもりで周りを観察し、主体的に動かないと、恋愛すらできない時代なんでしょうね。
男だけでなく、女にとっても、キツイ時代なわけです。

では、ちずはどのように動けば春田をゲットできたのか?

上でも確認したように、ホモソーシャルはホモフォビア=同性愛嫌悪とつながっています。
同性愛者である牧の恋が成就する点で「おっさんずラブ」はホモソーシャルを否定している画期的なドラマ、ということになるわけです。
そのようにホモソーシャルを否定する世界では、女も伝統的な枠で守られなくなるということですね(←ここ、見落としがちですが重要)。
だから、ちずは、「牧くんには絶対後悔してほしくない」とか言って牧と春田の復縁をお膳立てするんじゃなくて、牧の恋の成就をもっと徹底的に邪魔して、ドラマ「おっさんずラブ」のホモソーシャルからの離脱を食い止めるべきだったのではないでしょうか。
ポジションで言えば、「姫」ポジションと「マネージャー」ポジションと「名誉男性」ポジションの合わせ技。
ライバルである牧は、本社から異動してきて仕事ができるイケメンだし、家事もできるし、本物の男性なんですから、そのくらいじゃないと勝てません……ですが、これはちょっと牧くんに勝てる気がしないですね。
だから、ちずは牧に白旗を挙げて、牧のホモソーシャル破壊を後押ししたのだろうか……そう考えると、「牧くんには絶対後悔してほしくない」という唐突なセリフが俄然、輝いてきます。
でも、演出はそういう演出ではなかったですよね。
だって、ちずが牧くんに負ける描写がないわけですからね、それでこれは、女優さん、演りにくかっただろうなあ……。
そもそも、ちずはセクハラ男をとっちめたら取引先の偉い人で、上司に謝ってこいと言われて前職を辞めた人ですから、そこまで読み込めば、ホモソーシャルの枠の外の人たちの連帯感、みたいに言えそうですけど、そこまでは演出から感じ取れなかったなあ。
まあ、ひとはそこまで考えてドラマを観ているわけじゃないですからね、とすると、あのセリフを、春田や牧の気持ちを忖度することのできる、感情偏差値の高い女、みたいなホモソーシャルの枠内のニュアンスで受け取る人多数と思われます。

さてさて、そろそろ結論に参りましょう。
生物学上の女が、ホモソーシャルな集団の中でどのように振る舞ったらよいか、についての答えです。
牧のような「マネージャー」「姫」を兼ね備えている「男性」には、正直、恋愛では勝てません。
勝てたとしても、その結果として子どもを授かったとき、10か月子どもをお腹の中で育て、出てからも授乳して育てていくのは……今の科学技術のもとでは、まだ女性です。
だから、ホモソーシャルの枠の破壊は牧くんみたいな三拍子揃った同性愛男性(が現実にいるかわかりませんが)に任せて、女性は、蝶子のように、正解のない人生を体当たりで生きるのがいいんじゃないかと思います。
「マネージャー」とか「姫」とか「名誉男性」とか、そんなポジションなんて意識しない。
どのように振る舞ったらよいか、なんて考えていては、ダメ。
周りを観察し、主体的に動きましょう、ということです。

でも、それって、なかなか難しいものなんですよね。
「おっさんずラブ」を繰り返し観ていたら、Huluで「恋がヘタでも生きてます」という17年に放映された職場恋愛系ドラマがおすすめされてきたので、観ました。
(以下、ネタバレあります)
舞台はスマホゲーム会社で、主人公の茅ヶ崎美沙は恋愛ゲームのプロデューサーで、20代ながら会社の中心メンバー、頑張って働いている茅ケ崎に一目惚れする雄島佳介はNY帰りのプロ経営者という、キラキラ設定です。

しかし、ホモソーシャル的観点から見ると、茅ケ崎はダメダメです。
まず家事がダメ、仕事はできるが自分が中心になって企画を進める職種なので、誰かをサポートする「マネージャー」ポジションではありません。
「私なんかをなぜ……」発言が多く、自分に絶対的な自信をもつ「姫」ポジションの要素はありません。
創業時からのメンバーで、起死回生のヒット作を生み出したプロデューサーという「名誉男性」ポジションですが、取引先の社長で、雄島の元カノ(高校の同級生で大学時代は交際していた)の和久井遙香に比べると、セレブ感が足りないというか、小粒感は否めません。
要は、とても頑張っているかわいい女性なんですが、ホモソーシャルな視点からは、たまたま時代の波に乗り、注目をされているだけの使い捨て人材なわけです(うー、こわい)。
この点、原作の商社からスマホゲーム会社に舞台を移した設定が絶妙だと思います。

それで、特にゲームが好きでもないのにたまたま時流に乗って、茅ヶ崎が作ったゲームが当たってしまった創業者、日下部会長が、会社を売っ払ってハワイでのんびり過ごそうと考え、プロ経営者の雄島をNYから呼ぶわけです。
日下部会長は雄島に「茅ヶ崎くんをうまく使え」と実にホモソーシャル的で嫌なことを言います。
それが、(茅ヶ崎自身が感じたように)恋を仕掛けてノーと言えなくさせて合併を進める、という意味だったのか、ドラマを観た限りではちょっと確信がもてませんが、そこまで悪どくなくても、彼女を説得できれば合併はうまくいく、という示唆は含んでいると思われます。
しかし、雄島は茅ヶ崎をうまく使うことができなかった。
恋を仕掛けたものの、説得に失敗し、茅ヶ崎から、部下を連れて会社を出ていく、自分たちで新しく会社を立ち上げる、と言われています。

合併の条件には、現状のヒット作の承継だけでなく、当然、ヒットメーカーである茅ヶ崎の移籍が入っていると思うんですよね。
実際、合併先で茅ヶ崎にはゲームプロデューサーとしてのポジションが用意されている(他のほとんどの社員はゲーム以外の部署に行くらしいのに)、というセリフもありました。
そんな重要人物の説得に失敗するなんて、雄島は恋だけでなく仕事もヘタなんじゃないの、という疑惑が生じます。
それは本人も自覚していたようで、合併が白紙に戻った後、雄島は社長を辞任します。

しかし、日下部会長は茅ケ崎に、「彼は君を守ったんだよ」と言います。
え~!
雄島は、単に、亡くなったと思っていた前の恋人が生きていたというプライベートでの出来事を仕事に持ち込んで、現恋人の茅ヶ崎の説得に失敗した(というか説得もせずに放置していた)だけでしょ。
公私混同も甚だしいです。
日下部会長のセリフは、雄島が合併契約締結の席で、茅ヶ崎の気持ちを大切にしたい、とか長々と語って契約書へのサインを拒んだことを指しているようですが、そんなの、「茅ヶ崎が辞めると言っているので、合併の条件を満たすことができませんでした、申し訳ありません」で十分じゃん。
茅ヶ崎は部下たちの声をうけ、1人で考えた末に、新会社を立ち上げる覚悟を決めているわけで、いまさら合併をやめたって、茅ヶ崎を守ることにはなりませんよ。
それとも、茅ヶ崎の新会社が失敗するという確証でもあるのか、このおっさん(日下部会長)。
恐ろしや、おっさんの屁理屈

なのに、茅ヶ崎は、このおっさんの屁理屈を真に受けて、尾島を社長に復帰させ、付き合いも復活させるのです。
この場合、茅ヶ崎は、自分の意志で恋と仕事の両方を手に入れたかのように見えます。
しかし、ハワイ行きを諦めたおっさん(日下部会長)がオーナーとして君臨する、その下で物語の冒頭と同じプロデューサーという肩書で働くわけです。
なんにも変わっていない。

私、実は、会長にいいように使われている茅ヶ崎が心配でたまりません。
創業メンバーだけど株をもらっていないんじゃないか、これだけ仕事漬けの日々を送って会社を支えているのに、実は普通のOLさん並みのお給料なんじゃないか、ヒットが出せなくなったらポイと放り出されてしまうんじゃないか、(好きなら付き合ってもいいけど、恋だけでなく仕事もヘタそうな)雄島を社長に戻すのはやめたほうがよかったんじゃないか、せめて雄島社長の解任権くらいもっておくべきじゃないか、と、いろいろ心配になります、架空の人物なのに。

ちなみに、雄島とのコンビも、ホモソーシャルな枠から見事なくらいにはみ出していません。
小粒な「名誉男性」ポジションの茅ヶ崎は、ゲームのプロデュースという感情的な仕事で、尾島は、会社の経営という理性的な仕事。
20年前だったら出版社の敏腕編集者と社長、みたいな設定になったのでしょうか。
今ならゲーム会社という設定がピッタリですよね。

さきほど、これからの女性は、『おっさんずラブ』の蝶子のように、正解のない人生を体当たりで生きましょう、主体的に動きましょうと書きました。
この点、茅ヶ崎は体当たりで生きているし、まあ、主体的に動いていると思います。
でも、ホモソーシャルな、おっさんの言葉に惑わされています。
日下部会長がたぬきなのをわかった上で、従うフリをしているならいいんですけどね、ちょっとそうは見えない。
これからは、賢く立ち回れないと大変だと思うんですけど……。

たしかに、ホモソーシャルな世界は、女だけでなく(大部分の)男も不幸にします。
しかし、ホモソーシャルを否定しても、個が問われるキツイ世界がはじまるだけなんですよね。
そんなの無理、と思うなら、ホモソーシャルな枠をうまく利用しながら、その枠の中で生きるのもアリですね……そんなところかな。

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かなり練ったので、読み物としても面白いと思います。

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プロフィール

渡辺リエラ
1969年東京生まれ。1988年東京大学文科1類入学。1992年東京大学法学部卒業。出版社勤務、専業主婦を経て、現在、別名義にて大学講師などとして活動中。2007年7月第1子「みーちゃん」誕生。
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生後106日以降のママ日記は有料とさせていただいております。有料とする理由含め詳細は「当サイトについて」をご覧ください。
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