なぜ学校へ行くのか・その1

「学校に行くのは当たり前だろう、なんでそんな問いが出てくるのか」
と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。
でも、何度か言及していると思いますが、年中くらいからかな、みーちゃんが保育園をサボるようになりました。
「ほいくえんにいきたくない」
と、ストレートにいうこともあれば、
「おなかがいたい」
と、ホントかウソかわからない理由を述べることもあります。
一度、そんなみーちゃんを無理矢理自転車の後部座席に乗せて走りだしたことがあったのですが、自転車を左右に揺らして抵抗し、自転車が倒れそうになったので、その場に自転車を乗り捨てて、タクシーにみーちゃんを押し込んで保育園に連れて行ったことがあったんです。
その日はなんか、すっきりせず…仕事がはかどりませんでした。
それでは本末転倒なので、以来、子どもを連れて行けない外仕事がなくて(短時間の打ち合わせなら義母に預けたり、仕事仲間との情報交換ランチなら子どもを同伴したりします)説得しても応じない場合は、あっさり休ませています。
で、私は仕事をします。
そうは言っても、昼食を準備しなきゃいけないし(商店街に出かけて食べることが多いけど)、ちょっと公園で遊ばせることもあるし、家にいても、
「テレビは、ちょっとお休みしなさい」
「片付けなさい」
などと声を掛けなくてはなりませんから、予定した仕事量はこなせません。
こうやって休める時は休ませているからだと思いますが、一日外仕事の日は、正直にそう言うと保育園に行ってくれます。
で、なんとかなっていると言えなくもないのですが、2日連続で休まれたりすると、仕事は捗らないし、睡眠時間を削るからイライラするし、サイアクな気分です。

それでは、なぜみーちゃんが登園拒否をするのでしょうか。
それは、ひとことで言えば、自分のペースで遊びたいからだと思います。
家なら、大好きなNHKやEテレの番組(「ダーウィンが来た」や「マテマティカ2」など)を録画したビデオを観られるし、友だちに邪魔されずに自分一人で集中してお人形遊びや積み木ができます。
その気持ちはわからなくもない。

「だったら、保育園に行かせず、自宅で保育すればいいじゃないか、せっかく自宅で仕事をしているのだから」
とおっしゃる方もいるかもしれません。
たしかに、私の職業は、基本的にいつどこで仕事をしてもよい職業なので、理屈の上では自宅保育も可能です。
小学校に進んでも、自宅で教育するという選択肢も、論理的にありえます。
「自宅で教育? そんなことができるの?」
と思った方はホームスクールについてのメモをご覧ください。

でも私は、学校に通う必要もある、学校でしか学べないことがあるんじゃないか、と考えます。
理由を述べる前に、ご紹介したい記事があります。
プレジデントFamily 2013年2月号に掲載されたフランスを二分する宿題廃止論争です。

「フランスの公立小学校では、記述を伴う宿題が法で禁じられているが、最近は学力向上をめざす教師が、独自の判断で宿題を出すことが増えていた。
宿題が家庭学習の要とされる日本から見ると、こうした議論は奇妙に思える。だがその背景には、フランス革命以来の公教育に対する考え方があると、中央大学文学部の池田賢市教授は指摘する。
「フランスの公教育の大原則は、『公私の明確な区別』と『知育中心主義』です」と池田教授は言う。学校は公的領域、家庭は私的な領域であり、それぞれの場での教育は別のもの。その結果、学校の宿題が家庭の時間に侵入するのは、公による私の自由の侵害ということになる。また、知育は教師という専門家が行ってはじめて質を保証できるもので、家庭は家庭でしかできない徳育に集中するべきだ、とも考えられている」

さすが、王様(と王妃様)の首を切った国は言うことが違いますね~
そのフランスの枠組みで言うと、私のスタンスは「公私の明確な区別」には賛成、「知育中心主義」には疑問、という感じです。
つまり、学校は、集団生活に適応する訓練の場だと思うんですよね。
訓練と言っても必ずしも軍隊式の訓練ではなくて、もっと広義の、決まりを守るとか、我慢をする、話し合いをする、折り合いをつける、などの練習です。
別の表現をするならば、自分と違ういろんな友だちがいる、と肌で感じる体験をする場、ということです。
違いがあるからこそ、話し合いや折り合いが必要になる側面もあるわけで。
そういう集団の中の自分、公的存在としての自分に出会う場として、学校が必要だと考えるのです。
そして、他者を意識しなくてもいい、素のままの自分、私的存在としての自分の居場所が、家庭であると思うのです。

ただ、知育は学校で、徳育は家庭で、というのは疑問です。
というか、みーちゃんには合わないです。
もちろん、読み書き計算のような基礎を学校で叩きこむのは賛成です。
でも、それ以上の“知育”は学校では無理だと思うので、私が担当したいと考えています。
徳育も、もちろん宗教教育はじめ家庭でやるべきもの、学校ではできないものもあるとは思いますが、上述の「決まりを守るとか、我慢をする、話し合いをする、折り合いをつける」といった「集団生活に適応する訓練」は、どうしても徳育につながってしまうと思うんです、少なくとも日本では(例えば、キリスト教教育のような、神と自分との縦方向の関係は、好みに応じて家庭でやることでしょうけど、儒教的な、人対人の横方向の関係は、家庭だけじゃなくて、学校という現場でも学んだほうが効率がいいと思うので)。
なので、そこは学校に投げるしかないのかな、と思います。

整理すると、
学校→読み書き計算、「集団生活に適応する訓練」
家庭→高度な知育、深く内面にかかわる徳育

という感じですかね。
書いているうちに、フランスと日本(というか私)とで、「知育」「徳育」の言葉に込めている意味が異なるような気がしてきましたが、まあ、いいか。

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プロフィール

渡辺リエラ
1969年東京生まれ。1988年東京大学文科1類入学。1992年東京大学法学部卒業。出版社勤務、専業主婦を経て、現在、別名義にて大学講師などとして活動中。2007年7月第1子「みーちゃん」誕生。
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