なぜ学校へ行くのか・その2(宿題の話)

なぜ学校へ行くのか・その1の最後で、
「書いているうちに、フランスと日本(というか私)とで、「知育」「徳育」の言葉に込めている意味が異なるような気がしてきましたが、まあ、いいか」
と書きましたので、そこを掘り下げてみようと思います。

なんでそんなことを書いたかと言うと、なぜ日本は「共感教育」なのか?でご紹介したベネッセ教育研究開発センターサイトの「日米仏の思考表現スタイルを比較する──3か国の言語教育を読み解く──」(渡辺雅子・国際日本文化研究センター助教授へのインタビュー記事)で、フランスの教育について、
「フランスは日米と異なり、国語の授業時間の7割は文法や語彙、綴り字の習得に充てられます。書き方については、小学校では「正しく」書くこと、中学校では「美しい文」を書くこと、高校では「論理的な構造」で書くことと、段階的な到達目標を掲げています。」
と書かれていたことを思い出したのですね。

なぜ学校へ行くのか・その1では、

学校→読み書き計算、「集団生活に適応する訓練」
家庭→高度な知育、深く内面にかかわる徳育

と整理しましたが、「文法や語彙、綴り字の習得」は、「読み書き計算」に含まれますよね。
小学校の「『正しく』書く」も同様でしょう。
一方、中学校の「『美しい文』を書く」や、高校の「『論理的な構造』で書く」は、「読み書き計算」を越えて「高度な知育」に含まれそうな気がします。
日本の教育では、「正しく」書くことも、「美しい文」を書くことも、「論理的な構造」で書くことも、一緒くたにされているというか、もっと言うと「論理的な構造」で書くことの重要性が無視されている印象があるので、
「『美しい文』を書くことや、『論理的な構造』で書くことを、中途半端に学校で(とくに小学校で)指導されて、子どもが混乱するくらいなら、いっそのこと自分で教えたい」
と思って、「高度な知育」は家庭で、と考えました。
ただ、もしフランス流に段階を踏むのであれば、中学生には、「美しい文」を書く指導を正しく理解して、自分のものにすることができそうな気がします。
同様に、高校生には、「論理的な構造」で書く指導を正しく理解して、自分のものにすることができそうな気がします。
とすると、「美しい文」を書くことも、「論理的な構造」で書くことも、学校で指導すべき内容だと思えます。
さらにフランスでは、「美しい文」を書くことや、「論理的な構造」で書くこと以外の「高度な知育」、例えば、答えのない課題について詰めて考えたり、微分積分のように、既に公式化されている命題を自力でゼロから積み上げて到達したりするような勉強、そしてそのために必要な前提知識なども、書くことの指導と同じように、段階的に教えるメソッドができているんだろうなあ、と思ったんです(少なくとも日本と比べた場合)。
もしそうであれば、「高度な知育」も学校で教えることができるし、教えるべきだと感じたのです。

他方で、学校でやるべきと考えた「集団生活に適応する訓練」を、私は、日本の儒教的な価値観をベースに「徳育」に含まれると考えたんですが、フランスみたいなキリスト教の(一神教の、と言ったほうが正確なのかもしれませんが……)価値観をベースにするならば、それは「徳育」に含まれないんだろうな、と思いました。
だからと言って「知育」に含まれるわけでもなく、ただ「集団生活に適応する訓練」、それだけなのではなかろうか、と。

以上を整理すると、私が理解するフランスの教育は、

学校→読み書き計算、(段階的に教えるメソッドが存在する)高度な知育、「集団生活に適応する訓練」
家庭→深く内面にかかわる徳育

ということになります。
つまり、なぜ学校へ行くのか・その1でも紹介した、プレジデントFamily 2013年2月号に掲載されたフランスを二分する宿題廃止論争という記事の、
「知育は教師という専門家が行ってはじめて質を保証できるもので、家庭は家庭でしかできない徳育に集中するべきだ」
という池田賢市教授の表現は、フランスの完成された教育メソッドを前提とすれば、至極当然なんですね。
逆に言えば、フランス革命にはキリスト教をはじめとする既存の宗教を否定する局面があったのですが、いかにフランス革命といえども、家庭から宗教教育(徳育)を奪うことができなかった、とか、革命後の家庭には宗教教育(徳育)しか残されなかった、とか、そういうことなのかもしれません。
そこまで考えると、上記記事の、
「学校の宿題が家庭の時間に侵入するのは、公による私の自由の侵害」
という池田賢市教授の表現が、決して大げさではないことがよく理解できます。
だから、間違っても、
「フランスでは宿題禁止らしいから、日本も真似しよう」
とか、
「フランスでは宿題禁止らしいから、宿題が普通に出される日本のほうが進んでる」
などと言ってはいけないわけですね。

じゃあ、日本では宿題についてどう考えればいいんでしょうか?
フランス流の理解を踏まえて、改めて私なりに整理すると、日本の教育は、

学校→読み書き計算、(段階的に教えるメソッドが存在する場合の)高度な知育、「集団生活に適応する訓練」(日本では「徳育」の一部)
家庭→(段階的に教えるメソッドが存在しない場合の)高度な知育、深く内面にかかわる徳育

ということになるかと思います。
こういう、知育、徳育がまぜこぜになっている曖昧な状況では、とてもじゃないが、
「学校の宿題が家庭の時間に侵入するのは、公による私の自由の侵害」
なんて、言えません。
もし家庭が宿題を拒否する理屈を考えるなら、
「学校に、段階的に教えるメソッドが存在しないから、こっちは高度な知育を担当せざるをえなくて忙しいんです。だから、読み書き計算の指導くらい、学校で完結させてください!」
「我が家の教育方針として、深く内面にかかわる徳育(宗教教育)をじっくりやっていて、大変なんです。だから、「集団生活に適応する訓練」を家庭に持ち込むことをお断りします」
という感じでしょうかね。
小学校の、しょーもない宿題(読書感想文や日記など)を拒否する理屈なら、
「思ってもないことや、やってもないことを、だらだらと書かせるくらいなら、もっと、文法や語彙、綴り字の習得といった、文章を『正しく』書く訓練になる宿題を出してください」
とか、
「深く内面を探るような宿題を出すことは、我が家の、深く内面にかかわる徳育をする自由を侵害します」
とか。
どれも理屈としては成り立ちますけど、なんか、特殊な家庭の特殊な言い分、という匂いが漂います。
うちがもし日記の宿題を出されたら、
「日記は自発的に書かせたいので、申し訳ありませんが、提出のお約束はできません。日記を提出できない日は、かわりに、文章を『正しく』書く訓練として、教科書を書き写します」
みたいに言うかなあ、という感じですが、この言い分もやっぱり特殊な匂いがしますよね。
とりあえず、日本では、そういう特殊な事情がなければ、家庭は宿題を拒否できない、とまとめておきます。
逆に、家庭が学校に対して宿題を要求する際のハードルはないと思われます、少なくとも、フランスよりは少ないでしょうね。

とまあ、すっかり脱線してしまいましたので、続きは「その3」で。

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プロフィール

渡辺リエラ
1969年東京生まれ。1988年東京大学文科1類入学。1992年東京大学法学部卒業。出版社勤務、専業主婦を経て、現在、別名義にて大学講師などとして活動中。2007年7月第1子「みーちゃん」誕生。
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