なぜ学校へ行くのか・その3

本題に戻ります。
なぜ学校へ行くのか。

それは、学校でしか学べないことがあるから。
学校でしか学べないこと、それは規格化です。
前に、学校は、集団生活に適応する訓練の場だ、と書きました。
必ずしも軍隊式の訓練ではなくて、もっと広義の、決まりを守るとか、我慢をする、話し合いをする、折り合いをつける、などの練習、と。
今、言っている規格化は狭義、まさに軍隊式の訓練のことです。

今年のお正月、WIREDにスガタ・ミトラ:インターネットを介した「学び」は既存の教育を消滅させるというエントリが上がっていました。
スガタ・ミトラは、認知科学やA.I.の研究者であり、「Hole in the Wall」というプロジェクトの開発者。
TED2013においてTEDプライズを受賞した人。
「Hole In the Wall」は、インドのスラムにコンピューターを設置し、自学を促すプロジェクトで、映画『スラムドッグ・ミリオネア』の原作のモチーフともなったとのこと。
上記エントリの中で、彼はこう言っています。

「学校というものが存在する大きな理由のひとつは軍隊です。兵士は取り換えが利かなくてはなりません。ですから教育によって規格化される必要があるのです。そのシステムは工業化社会でも有用なものでしたが、いまそれが大きな障害となっています。なぜ子どもたちは学校に背を向けるのか。規格化された人間になんかなりたくないからです。」

このくだりを読んで私は、彼の意図とは逆に、学校がなくなることはないだろう、と確信しました。
それは、残念ながら当分は、戦争がこの世からなくならないと思うから。
戦争の可能性がある限り、軍隊(または実質的に軍隊と呼べる組織)は必要です。
(だって、いざというとき、みーちゃんを守ってもらわなきゃ、困りますから!)
そして、軍人は規格に合わせられなければなりません(戦死した前任者の仕事を、迅速に引き継がなければならない)。
それは、兵士だけでなく指揮官についても同様です(実際には、指揮官ごとの個性が出て、戦局が動いたりするんでしょうが、それはまた別の話)。
「女だから、関係ない」
とも言えません。
戦前、“竹ヤリ部隊”があったじゃないですか。
大河ドラマ「八重の桜」でも、武家の娘たちがなぎなたの稽古をしているじゃないですか(そして、彼女たちが会津戦争で奮戦する)。

だから、規格に合わせる訓練は、どうしても必要なのです。
その訓練の場は、直接的には軍隊それ自体です。
しかし、徴兵制を採らない国は多い。
それに、20歳くらいになっていきなり現場に放り込まれて……というのもキツイですよね。
シゴキ、とか、イジメ、とか、含めて考えるに。
(それぞれ、映画の一場面や、本のワンシーンを思い出してくださいませ。私の場合は「愛と青春の旅立ち」と「ハルマヘラ・メモリー」かな)。
なので、少なくとも日本において、予行演習の場としての役割を果たしてきたのが学校だったのではないか、と考えるわけです。
逆に言うと、予行演習をしない学校には、行く意味がないです。

なのに。
世の中には、
「学校は多様な個性を押し潰してけしからん」
みたいなことを言う人が多いです。
子どもたちの作品が並べられているが、どれも同じに見える、とか。
なぜみんなで一斉に同じことをやるのか、とか。
協調性を育てる(規格に合わせる)ために、決まっているじゃないですか!
たしかに、絵を描いたり、工作をしたり、踊ったりといった、創造性、個性を発揮してよい表現活動においてまで「みんな一緒」なのは、私もおかしいと思います。
でも、ほかに規格化の訓練をする場がないんですから、しかたないです。

さらに、「学校は多様な個性を押し潰してけしからん」みたいなことを言う人はだいたい申し合わせたように、
「海外(例として挙げられるのは欧米諸国)では、子どもたちの多様な個性を尊重している」
と言うわけです。
それは、その国では、学校以外に規格化の訓練をする場があるからだと思います。
(多様性を育てる活動は家庭その他でやればいいじゃん、とも思いますが、それはおいといて。)

では、彼らはどこで規格化の訓練をしているか。
ここはあまりよく知らないので、これから調べたいと思っているところなんですが、おそらく教会の活動や、ボーイスカウト、ガールスカウトの活動ではないかと思います。
教会では、少なくとも毎週1回は、じっと座って、決まったところで決まった言葉(主の祈りとか)をつぶやいて、みんなで同じ歌(聖歌や賛美歌)をうたうわけです(ミサや礼拝のことです)。
私が所属している教会には、ボーイスカウトやガールスカウトがいます。
正確にはどういう関係なのか、いまだによくわからないんですが、ミサにはボーイやガールの子たちがいますし、教会のバザーではボーイやガールの親御さんたち(ほぼ非クリスチャン)が大活躍です。
日本にボーイスカウトやガールスカウトを紹介したのが欧米からやってきた宣教師だったから、もっと言えば、ボーイスカウトやガールスカウトは教会から生まれた活動だから、なのかもしれません。

ただ、日本にはクリスチャンは1%しかおらず、ボーイやガールとすらかかわりをもっていない人がほとんどです。
日本は無宗教の国だ、とか、日本教の国だ、とも言われています。
もちろん、宗教的施設がないわけではない。
欧米における教会のように、日本の街に必ずある宗教的施設といえば、神社です。
でも、神社では規格化の訓練はほとんどしていないと思います。
できない、と言ったほうがいいのかもしれません。
太平洋戦争が終わって60年以上経っても、「天皇の戦争責任」といった議論がなされているのですから、やったらやったで、戦争と結びつけた批判がわきおこることでしょう。

うちは近くに神社があり、お祭りが盛大に行われます。
町内会ごとに神輿が出て、子ども神輿にも結構な数の子どもが集まります。
位置的に、「生まれた時からここに住んでいる、つまりここが自分の故郷」、ヘタすると、「江戸時代からご先祖様がここで暮らしていた」という人が多いからかな、と思っています。
町内会では芋掘りなどのイベントもやっていますが、どうやらボーイスカウト的な活動も地道にしているようです。
そういう活動がもっと大々的に行われて、子どもは全員参加する、くらいになればいいと思いますが、なかなか難しいでしょうね。
だから、保育園や学校の表現活動においてまで、規格に合わせる訓練をしなきゃならなくなるんじゃないか、と考えています。

繰り返しになりますが、なぜ学校へ行くのか、その答えは(私の答えにすぎませんが)、戦争に備え、規格化の訓練をするためです。
不登校のお子さんも、私は、別に学校に行かなくてもいいと思います。
ただ、1つ条件があって、それは、
「戦争になったら(できれば、戦争やむなし、という空気になってきたら)、山に逃げ込むこと」
残酷なようですが、戦い抜こうと覚悟している人たちの邪魔にならないように、という趣旨です。
食べ物は自分で探さないといけないし、寒いかもしれない。
死を意味する条件なのかもしれませんが、そこまで覚悟するなら、学校に行かなくていいと思います。

あと、不登校のお子さんの中には、ひょっとしたら、
「予行演習をしない学校には、行く意味がない」
と感じて不登校を選んでいる子もいるかもしれないなあ、と思っています。
もしそうだとすると、軍隊式の訓練をするような、うんと厳格な学校には、意外と行けるのかもしれません。
批判されながらもなくならない戸塚ヨットスクールの存在価値は、ひょっとしたら、この辺りにあるのでしょうか……。

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プロフィール

渡辺リエラ
1969年東京生まれ。1988年東京大学文科1類入学。1992年東京大学法学部卒業。出版社勤務、専業主婦を経て、現在、別名義にて大学講師などとして活動中。2007年7月第1子「みーちゃん」誕生。
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