このサイトのことを気にしてくださっているすべての方にオススメしたい映画があります。
「学歴の値段 ~集金マシーン化した米大学の真実~」です。
YouTubeで有料で観られます。
予告編は普通のYouTube動画のように無料で観られます。
私は、U-NEXTという動画配信サービスで偶然見つけて観ました。
観てよかったです。
まず、YouTubeの説明を貼り付けますね、どういう映画かよくわかると思うので。
“大学は高い学費に見合う価値があるのでしょうか?
既成の枠にとらわれない映画監督 アンドリュー・ロッシ(「Page One: Inside the New York Times」)が、高等教育の価値に鋭い疑問を投げかけ、教育の質の向上を差し置き、-規模の拡大に走ったビジネスモデルを導入している大学の実態を暴きます。学費の高騰や-総額1兆ドルを超える学資ローンによる負債が、かつては高い評価を受けていたアメリカの教育機関を危機的状況に追い込んでいます。
ハーバード大学からコミュニティ・カレッジ、オンライン学習まで、現在の教育危機を掘り下げ、驚くべき現状を明らかにします。”
私は、「G型・L型大学」の議論に興味を持てない理由で書いたように、
「G型だろうが、L型だろうが、「知の殿堂」である大学の地位自体が根本的に揺らいでいる」
と考えています。
地元の公立小中で大丈夫で書いたように、
「「知」だけにかかわる仕事はロボットやコンピュータに奪われる」
と考えているので、アメリカの学生たちのように、借金してまで大学にかよう必要は(一部の例外を除いて)ないし、(借金でなくても)親がなけなしの貯金をはたいて大学に行かせる必要なんて(一部の例外を除いて)ない、と考えています。
PTA会長職から逃げ回る父親は最低だで書いたように、私は、高等教育とは、さまざまな集団をまとめ、維持していく人になるための陶冶(とうや)の場である、と考えています。
それがわからない子どもに高等教育を受けさせる必要はないし、そんな余裕などない時代になっていくと予想しています。
余裕などない時代、とは、子どもに、自分が受けたのと同等のものを与えられない時代、ということです。
その辺りについては「春の海」の宮城道雄とブルー・オーシャン戦略とこれからの子育てで書いていますので、ご興味ある方はどうぞ。
よく聞かれるんで、付け加えておくと、子どもを母校・東大に行かせたいとも思わないです(特に法学部なんて時代遅れ、このサイト名もそのうち変えなきゃカッコ悪い、くらいに思ってます)。
子どもには、
「どこでもいいから、お金(給付制の奨学金のことです)をくれるところに行きなさい」
と言い聞かせています。
お金をくれるなら、大学であろうと、バレエ学校であろうと、専門学校であろうと、会社であろうと、なんであろうと、そこがきっと、彼女の才能を生かせる場所、彼女が生計を立てられる場所なのだろうと考えるからです。
映画の話に戻りますと、そこまでラディカルに、突き詰めて考えている私にとっても、かなり衝撃的な映画でした。
個々の話題というか題材について少しは知識がありましたが、それをまとめて映像として観せられると……。
昔、就職活動で某在京テレビ局の先輩に話を聞きに行ったとき(いわゆるOG・OB訪問です)、開口一番、
「テレビの強みは?」
と聞かれ、
「真実を伝え……娯楽性もあり……」
などと、ゴニョゴニョつぶやいていたら、
「そうじゃないでしょ。『映像のインパクト』だから」
と遮るように言われ、口がポカンとなってしまいました。
それが模範回答というかテレビの本質なんだな、ということは理解できました。
でも、ピンと来なかったのです。
だからこそ、私はテレビよりも文字寄りの人間なんだな、と痛感し、出版社への就職活動に邁進することとなったわけですが、その「映像のインパクト」という言葉の意味が、20年以上経ってはじめて心底理解できた気がします。
そのくらい、インパクトのある映画でした。
一番心を揺さぶられたシーンは、クーパー・ユニオン大学の学生たちが学長と話し合いをする場で、建築学科の学生(男性)が、
「今までのことは参考にならない。時代は変わった。これからどうするかを新しく考えていかなくてはならない」
という趣旨のことを言ったシーンです。
クーパー・ユニオン大学については、アゴラのついに降参:アメリカ唯一の「無料」私立大学、来年から有料にがわかりやすいです。
上記のシーンは、授業料徴収に反対した学生たちが学長室を長期間、占拠し、その過程で行われた話し合いでした。
学長の主張は、要は、(おそらくは他の大学との対抗上)設備投資が必要で、大学の運営にはお金もかかる、だから学生にも負担してもらうしかない、ということだと思います。
発言をした建築学科の学生の真意はわかりませんが、新しい建物を建てて人気集めをする時代は終わった、何を学ぶか、誰が学ぶかを一から考え直すべきだ、といったところでしょうか。
彼が思い描いているのは、雑誌「COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 」がしばしば取り上げているディープ・スプリングス・カレッジかもしれません。
ディープ・スプリングス・カレッジについては、「大学プロデューサーズ・ノート」というブログの砂漠内で自活する、孤高のエリート大学生達が、さらっと読めて、わかりやすいです。
「学歴の値段」でも、もちろん取り上げられており、まさに映像のインパクトを実感しました。
初期のキリスト教徒とか、4世紀くらいにエジプトの砂漠で修行していた修道士たちとか、トマス・アクィナスの頃とかも、こんな感じだったのかな、と思いました。
アメリカって国の凄みは、この辺にあるんでしょうねえ。
この辺の話がお好きな方は、ぜひ、日経ビジネスオンラインのアメリカを動かす「反知性主義」の正体 森本あんり・国際基督教大学副学長に聞くをお読みいただきたいです。
話がふくらんでしまいましたが、私はさらに、建築学科の学生の発言は、(知の殿堂としての)大学の価値が暴落しているという現実を直視する発言だと理解しました。
大学の価値の暴落、それは、今、時代の転換点に来ている、パラダイムが変わろうとしていることを考えれば、当然です。
近代の終わり――人間の理性が統計的事実によってその確からしさを検証される時代が来たで書いたように、かつては神様がすべての頂点でした。
デカルト以降、人間の理性がすべての頂点となり、それまでは、その存在が疑うことのない前提とされていた神様でさえ、人間の理性によって存在を証明される対象となりました。
それが「近代」という時代でした。
そして今、統計的事実が頂点に立つ「近代の次の時代」になってきています。
ポスト・モダーン以降、疑われはじめていたものの、なんとか頂点に君臨していた人間の精神が、ついに、統計的事実によってその確からしさを検証される時代に入ったのです。
そういう文明の転換点に来ているということですね。
観る者の思索を誘う、実に良い映画でした。