東洋経済オンラインの冨山和彦氏、大学教員の「選民意識」にモノ申すを読んで、東大法学部が復活するための処方箋で、「実学」という言葉を使っているにもかかわらず「G型・L型大学」の議論を完全に忘れていたことに気付いたので、補足します。
ま、昨秋から話題になっていた議論なのに、なぜ完全に忘れていたかと言うと、まったく興味を持てないからなんですけどね。
なぜ興味を持てないかと言うと、20年後、30年後には、ロボットやコンピュータに仕事を奪われる人がどんどん出てくるわけで、そっちの波のほうが確実に大きいし、人間社会への影響として本質的だからです。
地元の公立小中で大丈夫で書いたように、「知」だけにかかわる仕事はロボットやコンピュータに奪われるでしょう。
つまり、G型だろうが、L型だろうが、「知の殿堂」である大学の地位自体が根本的に揺らいでいるわけです、今。
そんな状況において、G型とかL型とか、細かく分けて、どうするんだろう、と心底、不思議に思っています。
冨山氏の我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性では、「L型大学で学ぶべき内容(例)」として「観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力」が挙げられていますが、翻訳ソフトが進化したら必要なくなる力と言わざるをえません。
また、「簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方」や「TOYOTAで使われている最新鋭の工作機械の使い方」を覚えても、いずれロボットやコンピュータに仕事を奪われることでしょう。
「道路交通法、大型第二種免許・大型特殊第二種免許の取得」にしても、自動運転車が普及したら、おしまいです。
そんなことを勉強するより、ロボットやコンピュータに仕事を奪われないために、エンジニアtypeのテクノロジーの進歩で10年後の働き方はどう変わる?人工知能の専門家が語る「結論」と「持論」で整理しているような、「クリエイティビティ」や「パーソナル・インテリジェンス(相手の気持ちを考える)」や「手先の器用さ」を鍛えたほうがいいと、私は思います。
しかし、困ったことに、ロボットやコンピュータ対策とG型・L型大学の話は微妙に重なっていて、勘違いを招きやすい。
さらに、G型・L型大学の話は法学部にうまく当てはまらない(気がするのは、私だけ?)。
という次第で、以下、なるべく深入りしないように、「実学」という言葉を中心に補足します。
まず、東大法学部は、冨山氏の分類で行くと、「グローバルで通用する極めて高度なプロフェッショナル人材の排出」を求められる「Gの世界(グローバル経済圏)」に属すると思われます。
私が東大法学部が復活するための処方箋で処方箋として提示した「我が国トップレベルの論理的思考力・表現力を身につけられる学部」ですが、これは「グローバルで通用する極めて高度なプロフェッショナル人材の排出」を求められる「Gの世界(グローバル経済圏)」に属する学部としてふさわしい方向性ではないかと思います。
他方、「Lの世界(ローカル経済圏)」の「L型大学」には「学問」よりも「実践力」が求められ(東洋経済オンラインの記事では「実学」とされています)、例えば法学部の先生には「宅建合格やビジネス法務合格の受験指導能力」が求められるようです。
ところで、現実の東大法学部はどうかと言いますと、国家公務員試験合格や司法試験合格が良しとされるムードが、私が在籍した20数年前にはあったし、今でも、なくなってはいないと思われます。
その意味で、意外なようですが、かなりLっぽいところがあります。
冨山氏は我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性で「(大学で職業訓練をすべきことは)東大とて学部と学生レベルによっては例外ではない」と書かれていますし、東大法学部は「高級職業訓練校」であると考えておられる気配もありますが、しかし、なぜか世間様は、東大法学部の先生に、国家公務員試験合格や司法試験合格の「受験指導能力」を求めません。
その点はG的です。
そこの食い違いから、学生たちのほとんどは、予備校(純然たるLですね)に通いながら合格を目指すこととなります(彼らは私の東大法学部が復活するための処方箋で言うところの「実学としての法学を学ぶ必要のある人」です)。
では、学生たちの受験指導を求められない東大法学部の先生は、いったい何をしているのでしょうか?
G型ですから、「道路交通法、大型第二種免許・大型特殊第二種免許の取得」ではなく「憲法、刑法」のほうです。
「文系のアカデミックライン」と言えましょう。
でも、「シェイクスピア、文学概論」などと異なり、「憲法、刑法」の場合はもろに実務社会とかかわるわけです。
憲法は選挙制度と密接な関係があるし、刑法はまさにそれを根拠に裁判が行われ、死刑という形で人の命を奪うこともありうる法律です。
商法が改正されれば、日本中の会社に影響が出ます。
ですが、これは私見になりますし、一般化はあまりに危険であることは承知しているのですが、あえて言わせていただくと、東大法学部の先生はあまり実務社会とかかわることを好まず、アカデミックに法学を研究しておられるような印象があります。
そういう印象があったので、東大法学部が復活するための処方箋で「実学の世界に閉じ込められているのはもったいない」と書きました。
むしろ純粋にアカデミックに研究できる分野に行っていただいたほうがいいんじゃないか、という趣旨です。
東大文系の入試で1番の人は文Ⅲから印哲に行って世捨て人になる、といったような話がありますが、仮にそうだとしても、2番、3番の人はまず100%文Ⅰ志望でしょう。
そして、入学後も成績が良いので、順当に法学部に進んだ後、教授に誘われて大学に残るケースが多いと思われます。
ぶっちゃけ、実務社会に興味はなく、アカデミックに研究をしたかった、でも、たまたま成績が良かったので法学部に進学してしまって、法学をひたすらアカデミックに追究したが、実務社会にインパクトを与えることはなく、「机上の空論」と陰口をたたかれる……。
こういう文脈で例に挙げるのはとても失礼なことかもしれないし、お叱りを覚悟の上で書きますと、学生時代、民事訴訟法の新堂幸司先生の争点効理論を勉強したとき、宇宙に飛び出して行きそうなくらいのスケールの大きさを感じて、「法学って、こんなにスゴイ学問なんだ」と感動しました(私だけではなく、きちんと法学を勉強して実務家になった友人にも複数、そう言っている人がいます)。
でも、発表から数十年経ちましたが、争点効理論はいまだに実務で採用されていませんし、おそらく今後も採用されることはないでしょう。
世の中、新堂先生のような頭の持ち主ばかりではないですからね、現実的ではないんですね。
東洋経済オンラインの記事で冨山氏が、「そもそも社会科学の世界では、実学とアカデミズムの境界があいまいなのです。日本の社会科学が世界的に高い評価を受けていない理由のひとつは、実学と切り離されているからです」と言っていることとも重なります。
ですから、もし仮に、新堂先生のような方が法学部ではなくて「哲学や数学、物理といった分野に進んでいたら、ものすごい学問的な発展があったんじゃないか」、ひょっとしたら、ノーベル賞のような世界的な賞に手が届いたかもしれない、と考えると、法学部の人気が下がって良かった、と思わざるをえないのです。