2015年01月

「G型・L型大学」の議論に興味を持てない理由

東洋経済オンラインの冨山和彦氏、大学教員の「選民意識」にモノ申すを読んで、東大法学部が復活するための処方箋で、「実学」という言葉を使っているにもかかわらず「G型・L型大学」の議論を完全に忘れていたことに気付いたので、補足します。

ま、昨秋から話題になっていた議論なのに、なぜ完全に忘れていたかと言うと、まったく興味を持てないからなんですけどね。
なぜ興味を持てないかと言うと、20年後、30年後には、ロボットやコンピュータに仕事を奪われる人がどんどん出てくるわけで、そっちの波のほうが確実に大きいし、人間社会への影響として本質的だからです。
地元の公立小中で大丈夫で書いたように、「知」だけにかかわる仕事はロボットやコンピュータに奪われるでしょう。
つまり、G型だろうが、L型だろうが、「知の殿堂」である大学の地位自体が根本的に揺らいでいるわけです、今。
そんな状況において、G型とかL型とか、細かく分けて、どうするんだろう、と心底、不思議に思っています。
冨山氏の我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性では、「L型大学で学ぶべき内容(例)」として「観光業で必要となる英語、地元の歴史・文化の名所説明力」が挙げられていますが、翻訳ソフトが進化したら必要なくなる力と言わざるをえません。
また、「簿記・会計、弥生会計ソフトの使い方」や「TOYOTAで使われている最新鋭の工作機械の使い方」を覚えても、いずれロボットやコンピュータに仕事を奪われることでしょう。
「道路交通法、大型第二種免許・大型特殊第二種免許の取得」にしても、自動運転車が普及したら、おしまいです。
そんなことを勉強するより、ロボットやコンピュータに仕事を奪われないために、エンジニアtypeのテクノロジーの進歩で10年後の働き方はどう変わる?人工知能の専門家が語る「結論」と「持論」で整理しているような、「クリエイティビティ」や「パーソナル・インテリジェンス(相手の気持ちを考える)」や「手先の器用さ」を鍛えたほうがいいと、私は思います。
しかし、困ったことに、ロボットやコンピュータ対策とG型・L型大学の話は微妙に重なっていて、勘違いを招きやすい。
さらに、G型・L型大学の話は法学部にうまく当てはまらない(気がするのは、私だけ?)。
という次第で、以下、なるべく深入りしないように、「実学」という言葉を中心に補足します。

まず、東大法学部は、冨山氏の分類で行くと、「グローバルで通用する極めて高度なプロフェッショナル人材の排出」を求められる「Gの世界(グローバル経済圏)」に属すると思われます。
私が東大法学部が復活するための処方箋で処方箋として提示した「我が国トップレベルの論理的思考力・表現力を身につけられる学部」ですが、これは「グローバルで通用する極めて高度なプロフェッショナル人材の排出」を求められる「Gの世界(グローバル経済圏)」に属する学部としてふさわしい方向性ではないかと思います。
他方、「Lの世界(ローカル経済圏)」の「L型大学」には「学問」よりも「実践力」が求められ(東洋経済オンラインの記事では「実学」とされています)、例えば法学部の先生には「宅建合格やビジネス法務合格の受験指導能力」が求められるようです。
ところで、現実の東大法学部はどうかと言いますと、国家公務員試験合格や司法試験合格が良しとされるムードが、私が在籍した20数年前にはあったし、今でも、なくなってはいないと思われます。
その意味で、意外なようですが、かなりLっぽいところがあります。
冨山氏は我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性で「(大学で職業訓練をすべきことは)東大とて学部と学生レベルによっては例外ではない」と書かれていますし、東大法学部は「高級職業訓練校」であると考えておられる気配もありますが、しかし、なぜか世間様は、東大法学部の先生に、国家公務員試験合格や司法試験合格の「受験指導能力」を求めません。
その点はG的です。
そこの食い違いから、学生たちのほとんどは、予備校(純然たるLですね)に通いながら合格を目指すこととなります(彼らは私の東大法学部が復活するための処方箋で言うところの「実学としての法学を学ぶ必要のある人」です)。

では、学生たちの受験指導を求められない東大法学部の先生は、いったい何をしているのでしょうか?
G型ですから、「道路交通法、大型第二種免許・大型特殊第二種免許の取得」ではなく「憲法、刑法」のほうです。
「文系のアカデミックライン」と言えましょう。
でも、「シェイクスピア、文学概論」などと異なり、「憲法、刑法」の場合はもろに実務社会とかかわるわけです。
憲法は選挙制度と密接な関係があるし、刑法はまさにそれを根拠に裁判が行われ、死刑という形で人の命を奪うこともありうる法律です。
商法が改正されれば、日本中の会社に影響が出ます。
ですが、これは私見になりますし、一般化はあまりに危険であることは承知しているのですが、あえて言わせていただくと、東大法学部の先生はあまり実務社会とかかわることを好まず、アカデミックに法学を研究しておられるような印象があります。

そういう印象があったので、東大法学部が復活するための処方箋で「実学の世界に閉じ込められているのはもったいない」と書きました。
むしろ純粋にアカデミックに研究できる分野に行っていただいたほうがいいんじゃないか、という趣旨です。
東大文系の入試で1番の人は文Ⅲから印哲に行って世捨て人になる、といったような話がありますが、仮にそうだとしても、2番、3番の人はまず100%文Ⅰ志望でしょう。
そして、入学後も成績が良いので、順当に法学部に進んだ後、教授に誘われて大学に残るケースが多いと思われます。
ぶっちゃけ、実務社会に興味はなく、アカデミックに研究をしたかった、でも、たまたま成績が良かったので法学部に進学してしまって、法学をひたすらアカデミックに追究したが、実務社会にインパクトを与えることはなく、「机上の空論」と陰口をたたかれる……。

こういう文脈で例に挙げるのはとても失礼なことかもしれないし、お叱りを覚悟の上で書きますと、学生時代、民事訴訟法の新堂幸司先生の争点効理論を勉強したとき、宇宙に飛び出して行きそうなくらいのスケールの大きさを感じて、「法学って、こんなにスゴイ学問なんだ」と感動しました(私だけではなく、きちんと法学を勉強して実務家になった友人にも複数、そう言っている人がいます)。
でも、発表から数十年経ちましたが、争点効理論はいまだに実務で採用されていませんし、おそらく今後も採用されることはないでしょう。
世の中、新堂先生のような頭の持ち主ばかりではないですからね、現実的ではないんですね。
東洋経済オンラインの記事で冨山氏が、「そもそも社会科学の世界では、実学とアカデミズムの境界があいまいなのです。日本の社会科学が世界的に高い評価を受けていない理由のひとつは、実学と切り離されているからです」と言っていることとも重なります。

ですから、もし仮に、新堂先生のような方が法学部ではなくて「哲学や数学、物理といった分野に進んでいたら、ものすごい学問的な発展があったんじゃないか」、ひょっとしたら、ノーベル賞のような世界的な賞に手が届いたかもしれない、と考えると、法学部の人気が下がって良かった、と思わざるをえないのです。

東大法学部が復活するための処方箋

日本経済新聞の学部はいま 法学部、花形復活へ改革(2015/1/19朝刊)によると、東大法学部で「昨年9月、教養課程の2年生が来年度3年次に進学する学部・学科を決める「進学振り分け」で、法学部の希望者(412人)が定員(415人)を下回った」そうです。
定員割れは2013年度以来2度目とのこと。
また、「東大法学部の就職先の代名詞であった官公庁。1994年度は卒業生の約25%を占めたが、12年度は17%で、近年は10%程度の年度もある」。
「こうした事態を踏まえ、東大は17年度から、法学部内に3つあるコースのうち官公庁への就職を志望する学生向けの「公法コース」の名称を「法学総合コース」に変更。履修科目の選択肢を増やし、学生それぞれのニーズに沿って学び、進路の多様化に対応する環境を整える」らしいです。

「あらま、びっくり」では実はないのですが、まあ、東大が官僚養成学校としてつくられたことを考えると、隔世の感はあります。
私は法学部生として優秀な学生ではなかったし(ぼーっとしていたために「文転」しそこねて、他学部履修制度を利用して文学部に顔を出す、中途半端な学生でした)、子どもに東大法学部に行ってほしいとも思っていない(行くな、とも思っていない)のですが、仕事上、東大法学部卒という肩書で得する面もあり(損する面もある)、このサイトでも「東大法卒」を謳っており……なんとなく恩義を感じています。
そこで、おせっかいを承知で、東大法学部が復活するための処方箋を考えてみました。

で、いきなり結論になるのですが、
「我が国トップレベルの論理的思考力・表現力を身につけられる学部」
という方向がいいと思います。

ところで、「論理」とはなんでしょう?
「論理」というと、なにかとても難しいものと考えがちですが、私は、良き指導者はどこにいる? 「論理的」「ロジカル」が目印だ!で述べたように、論理とは、素朴で、生活に根ざした、常識的な感覚だと考えています。
シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』のヒロイン、ジュリエットを例に考えるならば、14歳で、まだまだ子どもであるジュリエットを舞踊で論理的に表現すると、「ジュリエット役のバレエダンサーはトウシューズを履かずに裸足で走りまわる」ということになります。
クラシックバレエの主役は常にトウシューズを履いていなければならないという“業界慣習”にとらわれず、常識で考えると、そうなるはずです。
常識で考えるとは、“業界慣習”のような、狭い世界の「常識」あるいは「暗黙の了解」に絡め取られない、ということなんですね。

そして、論理的な思考は、論理的であるがゆえに、「あうんの呼吸」や「以心伝心」でなんとなく広がっていくのではなく、明確に言語化され、異なる文化圏に属する者にも(イスラム圏にも)、さまざまな教育レベルの者にも(学校に行けないような貧困層にも)、きちんと伝わります。
それが論理的に表現されるということです。
つまり、なぜ日本人は英語を学ぶべきなのかで述べたように、背景の異なる人々が互いに理解しあう(コミュニケーション)ための共通のルールが「論理」なのです。

しかし、私たち日本人は、「あうんの呼吸」や「以心伝心」にあまりに慣れ親しみ、また、さまざまな狭い世界の「常識」を身につけてしまっているため、純粋に「論理」的に思考し、表現するのが難しくなっています。
そんな私たちが「論理」を取り戻すための必殺武器が「型」です。
「型」とは、ポイントを押さえた、誰にとってもわかりやすい書き方、話し方のパターンです。
これを覚えておくと、話下手の人でもラクに話すことができるし、異なる文化圏間でも意思の疎通を図りやすいのではないか、と思います。

「型」についてのオススメ本は、コミュニケーション力(論理的表現力)をどう鍛えるかでご紹介している『子どものための論理トレーニングプリント』です。
同書は、論証、物語、説明、描写、報告など、ひと通りの「型」を独学できる素晴らしい本です。

この本を初めて眺めたとき、私にとって知らないことは書かれていない、と感じました。
では、私はどこで学んだのだろう、と考えてみて、一番大きかったのは、司法試験の予備校でした。
もちろん、30年くらい前、高校(英語圏の外国人が創設したため、英語に力を入れている学校でした)の授業で、1パラグラフに1トピック、パラグラフの初めで、そのパラグラフで述べたいことを要約する、といった英作文のルールは学びました。
その後、TOEFLのライティングの本を読んで、そういったルールを再確認した経験もあります。
でも、私が表現の「型」を自分のものにしたのは、間違いなく、司法試験の答案練習会においてでした。
実は、司法試験の答案を書いているときに、このノウハウがあればライターとしてやっていけるな、このまま司法試験の勉強を続けて実務家になったら、法律に関する文章ばかり書くことになるけれど、ライターならいろんな分野の文章を書けて、面白そうだな、と考えて方向転換を決意したのでした。

法律の文章の「型」についてのメソッドは、限られた時間で一定量の文章を書かなければならない司法試験対策に特化した予備校に溜まっていました。
しかし、もちろん、「知の殿堂」である大学の法学部にも「型」のメソッドが集積しているはずです。
それは、

「『事実』(ザイン、Sein)と『主張・判断』(ゾレン、sollen)を区別せよ」
「法的三段論法にのっとって書け」

といった、1年次におそらく全員が受講するであろう「法学入門」で教わるような、普遍的な内容です。
前者は、メディアリテラシーとして最近よく指摘される「事実と意見の違い」とも重なります。
NewsPicksという経済に特化したニュースキュレーションサイトのバズフィードとベゾスが、雰囲気をがらりと変えたによると、ジャーナリストの菅谷明子さんの娘さん2人は5歳の時に(彼の地では小学校の1年前から義務教育なんだそうです)、事実と意見の違いを習ってきたそうです。
5歳の子に教えるくらい重視されているということでもあり、そのくらいに普遍的だとも言えると思います。
作文は「Peer Review」つまり、子どもがグループに分かれて批評し合って、最終的にクラスでディスカッションをするそうです。
これらの背景にあるのは「Critical Thinking」つまり「建設的な批判能力や多角的視点の育成を奨励」する姿勢。
「法学入門なんて、カビが生えているかと思ったら、意外と先進的で国際的じゃん。けっこういいんじゃない?」
そんなふうに思いはじめた人もいるんじゃないでしょうか。

後者の法的三段論法については、辰已法律研究所専任講師・弁護士の福田俊彦氏の「法律家の基礎・法的三段論法をマスターしよう」がわかりやすいかと思います。

人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する(刑法199条に書いてある文言そのまま)

甲は私を刀で刺して死に至らせた(発生した事実)
↓だから
甲は死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処せられる

という論理の流れです。
当たり前の話というか、誰が見ても納得してもらえる理屈だと思います。
複雑で難解に思える法律の議論も、分解すると、こういう当たり前の積み重ねになっているのです(そのはずです)。
そういう「型」のメソッドを4年間かけて徹底的に叩き込んだら、迅速で的確な判断のできる、議論に強い、論理的思考力・表現力の塊のようなビジネスパーソンができあがるような気がしませんか。
現代ビジネスの連載オックスブリッジの流儀を見てても、彼らが学んでいるのは、要は論理的思考力・表現力だと感じます。
(オックスブリッジに負けるな、東大法学部!)

冒頭で引用した日経の記事によると、中央大法学部法律学科の中島康予法学部長は、
「学ぶ内容が多様であることを情報発信したい」
とおっしゃっていて、東大も同じことを考えていそうですが、むしろ逆ですね。
学ぶのは論理的思考力・表現力だけ。
「ディベートをたくさんやります」「模擬裁判は燃えますよ」などといった方向でアピールすれば、高校生も、法学部で何を学べるのか、なんとなくイメージできるのではないでしょうか。

ただ、論理的思考力・表現力みたいな普遍的なところを強調しはじめると、東大法学部のポジションが「教養」を看板とする東大教養学部とかぶってきます。
教養と論理的思考力・表現力は、コインの表と裏のようなところがありますからね。
さらにもっと言うと、「論理的思考力・表現力なら、うちの学部でも教えられるぜ」と他の学部が口々に主張しはじめるはずです。
それにどう反論するか。

正直言うと、学生時代からずっと、優秀な先生方や仲間たちが実学としての法学の世界に閉じ込められているのはもったいないなあ、と思ってきました。
彼らが、例えば哲学や数学、物理といった分野に進んでいたら、ものすごい学問的な発展があったんじゃないか、という気がするのです(あ、法哲学という学問はありまして、とても面白いんですが、法学部ではかなりマイナーなんです)。
逆に言うと、実学としての法学を学ぶ必要のある人は実は少なくて、それに今、ようやくみんなが気付きはじめた、ということだと思います。
その意味で、法学部の人気が下がるのは当然なのですが、ここでは「東大法学部が復活するための処方箋」を述べることにしているので、

「論理的思考力・表現力を深く教えられて、徹底的に磨き上げるメソッドを持ってるのは、法学部だけだぜ! イエーイ!」

と言っておきます。

【追記】2015.1.27
補足エントリ「G型・L型大学」の議論に興味を持てない理由を書きました。

プロフィール

渡辺リエラ
1969年東京生まれ。1988年東京大学文科1類入学。1992年東京大学法学部卒業。出版社勤務、専業主婦を経て、現在、別名義にて大学講師などとして活動中。2007年7月第1子「みーちゃん」誕生。
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