私は、クラブ活動やお稽古事、趣味を、いわゆる勉強と同じくらいに重視すべきだと考えています。
「単なる情操教育」程度の認識でやるのは「お金の無駄」くらいに思っています。
理由が気になる方は、「多面的に評価」って何?をどうぞ。
さて、クラブ活動やお稽古事、趣味において、一番の問題は、良き指導者とどのようにして巡りあうか、です。
日本の伝統的なクラブ活動では、体罰やら根性論やらがはびこっているじゃないですか。
それは論外としても、良き指導者とはどういう指導者なのかは、かなり難しい問題です。
NumberWebのプロ野球コラム「野球善哉」野球界にも指導者ライセンスが必要?このままでは野球少年がいなくなる!によると、
「実際問題アマチュアの舞台でも、何ら有効性のない指導を続けている指導者が多いというのが現状だ。
未だ消えぬ体罰問題は、高校野球でこそ減少傾向にあると感じるが、中学や小学校では、野球少年を痛めつける指導が横行している。根性論・精神論でしか指導ができず、怒号・罵声をグラウンドじゅうに響かせ、自身の指導力のなさを棚に上げて、選手をしかりつけて威嚇する指導者は、全く減る気配がない」
ですって。
うわあ、イヤだ。
もちろん、これではいけない、と問題意識を抱えている指導者もいらっしゃるようですが。
同エントリでは、サッカーと比較して論じられています。
サッカーでは「コーチングライセンス制度というものが存在する。それもキッズから小学生、それ以上の年代にプロと段階別に分けられている」
「日ごろの練習では指導ライセンスの拘束を受けないが、公式戦になると、必ず、ベンチにはライセンス取得者がいなければならない」
もちろん、ライセンスがあればよいという話ではありませんが、
「あるサッカー指導者の話では、この制度があるから「指導者は勉強しなくてはいけないものだ」という認識が一般的に持たれている」
という側面はあるだろうなあ、と思います。
意識の持ちようが大事、ということですね。
ただ、何を「意識」するか、どっちの方向を向いて「勉強」するか、によるんですよね。
それを考えさせられるのが、フットボールチャンネルの昨年のエントリ子供がサッカーを嫌いになる日 ~市井の指導者からの叫び~です。
ハフィントンポストにも転載されています。
要点はと言いますと、子どもに判断させず、「今のタイミングで出さないとダメじゃないか!」などと細かく指示するタイプのコーチがいて、子どもはコーチの顔色ばかりうかがうようになり、自信をなくし、サッカーが楽しくなくなってやめてしまう、という話です。
しかも、その指示は「よく見ていると指示するタイミングもズレているから戦術的にも間違っている」から、子どもからしたら、わけわからんわけです。
最悪です。
怖いのは、「ジュニア年代の現場を取材していると、この手の子供を萎縮させてしまう指導者は少なからずいる。山口氏は「全体の8割」だと感じている」というくだり。
例えばサッカー王国の1つ「スペインでは、各地域の主要クラブのディレクターという存在が地域の指導者を指導し、指導者の質を担保している」そうですが、日本ではまだそういうシステムが出来上がっていない模様。
「子供は遊びの中の、楽しい、悔しい、から色んなことを覚えていくもの。だから、指導者が教えるというよりも、子供が自分で見つけることが大事なんです。興味を持ってくると本を読んだりもする」
「ジュニア年代の指導者に大事なことは、目先の勝利だけに目を奪われることなく、子供の成長を長い目で見られるかどうかだ。子供が将来プロになる・ならないに関係なく、サッカーから学んだことを武器に、たくましく社会を生き抜ける人間に育てられるかどうかが、育成に携わる指導者の本当の勝負ではないだろうか」
といった「意識」で「勉強」している指導者に出会えたら、サイコーなんですけどね。
それでも、野球よりサッカーのほうが(現状では)いいんじゃないかと思うのは、再び、野球界にも指導者ライセンスが必要?このままでは野球少年がいなくなる!から引用しますと、
「サッカーは国際サッカー連盟(FIFA)を頂点として、すべての考え方や知識が共有されている。組織としてのあり方やクラブのあり方、資格制度、指導のあり方までが世界からトップダウン式に下りてきている」
「いわば、“グローバルスタンダード”というものが存在していて、その中で国内では、日本代表を頂点として、Jリーグ、そこから下の組織へと指導の考え方が下りてきている」
からです。
上意下達がよい、という意味ではないんですよ。
日本的なコミュニケーションにも良いところはあるけれど、それ以外のコミュニケーションのありようも取り入れたほうがいいと思うんです。
その際、“グローバルスタンダード”という錦の御旗や、FIFAからのトップダウン式は有効だろうし、そもそも「すべての考え方や知識が共有されている」ということはつまり、日本的に暗黙知のまま放置され、以心伝心でなんとなく広がっていくのではなく、異なる文化圏に属する者にも(イスラム圏にも)、さまざまな教育レベルの者にも(学校に行けないような貧困層にも)、きちんと伝わるように、明確に言語化されているはずです。
そこを私は評価したいと考えます。
そして「それ以外のコミュニケーションのありよう」を象徴するのが、おそらく「論理的」「ロジカル」という言葉ではないかと、常々思っています。
1つ例を挙げます。
チケットぴあの振付家来日! 東京バレエ団『ロミオとジュリエット』は、世界的振付家でハンブルク・バレエ芸術監督のジョン・ノイマイヤーの記者懇親会をレポートしたエントリですが、ノイマイヤー版(1971)において「それぞれのキャラクター、シチュエーションをロジカルに表現する」ことをめざした、とノイマイヤーは言ったそうです。
「ロジカル」と言うと、学者先生の論文みたいなものをイメージする人もいるかもしれませんが、そうじゃないんです。
もっと、素朴で、生活に根ざした、常識的な感覚も「ロジカル」たり得ます。
ノイマイヤーの言葉を引用するなら、
「例えば、それまでのバレエでは、ジュリエットは最初から最後までトウシューズで踊っているけれど、シェイクスピアの作品をきちんと読むと、ジュリエットは実はまだ14歳の女の子なんです」
だから、ノイマイヤー版のジュリエットは、第1幕では、「裸足で走りまわるあどけない少女の姿」をしているわけです。
この場合、
ジュリエットは14歳で、まだまだ子ども→裸足で走りまわるあどけない少女
が「ロジカル」な舞踊表現である、ということです。
少女が最初っからトウシューズで踊るのは、クラシックバレエの主役は常にトウシューズを履いていなければならないという“業界慣習”を無批判に取り入れただけであって、舞踊表現として「ロジカル」とは言えない、となるわけです。
以上からおわかりの通り、この「ロジカル」という言葉は、欧米の感覚では、そんなに特別な言葉ではありません。
詳しくは、つくば言語技術教育研究所サイトの「つくば言語技術教育研究所の論文・記事」ページのなかほど、時の法令(財務省印刷局、雅粒社編)に執筆された記事の中の「3. -:「論理的」という言葉を日常語に, NO.1644, 平成13年6月」をぜひ読んでいただきたいのですが、欧米では「論理的」という言葉が日常的に用いられ、幼児でさえ文脈を踏まえて正しく使うことができる(その主張の当否は別として)のだそうです。
そして、大変興味深いのは、ノイマイヤーの同じ記者懇親会を同じライター(加藤智子氏)がレポートしたエントリ、東京バレエ団サイトのNEWS「ロミオとジュリエット」振付家ジョン・ノイマイヤー記者懇親会レポート(過去のアーカイブから14年1月を選択してください)には、「ロジカル」という言葉は一切出てこないし、全体的な文章表現もあまり「ロジカル」ではなくて、なんというか、ネチャっとしています。きません。
言葉と言葉がノリでネチャっと引っ付いて、全体像を形成している感じ
こちらが日本の文章としては普通だと思います。
2つの文章の違いがよくわかるので、ぜひ読み比べてみていただきたいです。
※時間をおいて読んでみたら、言い過ぎだと感じました。訂正します。
子どもの将来で、子どもにやらせたい活動として、サッカーやバレエを例に挙げたのは、表面的に言えば、海外へ行くことの敷居が低いから、です。
その奥に隠された理由は、実は、ロジックが軽んじられている日本においても、サッカーやバレエの世界では、「論理的」「ロジカル」という言葉がチラチラと見え隠れしているから、だったのです。
ここまで書けば、野球よりサッカーのほうがいいと言う理由をご理解いただけますよね。
結論としては、「論理的」「ロジカル」という言葉が馴染むかどうかという眼で指導者を探すとよいのかなあ、と思います。
【追記】2014.5.23
続きです。
サッカーで理解しよう、“分解”すればロジカルになれることを